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原文
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作成日 2004年(平成16年)4月から7月 |
子貢曰、如有博施於民、而能濟衆、何如。可謂仁乎。子曰、何事於仁。
必也聖乎。尭舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲逹而逹人。
能近取譬。可謂仁之方也已。
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〔 読み下し 〕 |
子貢日わく、如し博く民に施して、能く衆を済う有らば、何如。仁と謂うべきか。子曰わく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯、舜も猶諸を病めり。夫れ仁者は、己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る。仁の方と謂うべきのみ。
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〔 通釈 〕 |
子貢が、「もし人民に遍く恩恵を施し、よく衆生を救済することをできたなら、仁と云うべきでしょうか?」と質問した。孔子は、「それができたら仁どころではない。聖人と云って良かろう。堯・瞬程の聖天子でさえ、中々それができないと云って気をもんでおられたのだ。仁者とは、自分がこうありたい・ああなりたいと思うことは先ず人にやってあげる。つまり、よく我が身に置き換えて己の欲する所人に施して行く。これが仁者のやり方である」と答えた。
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〔 解説 〕 |
堯も瞬も中国上古代虞王朝時代の帝王で、帝堯(ていぎょう)・帝瞬(ていしゅん)と称され、聖天子と云われた人物です。この時代を「三皇五帝」時代とも云い、今から四千年以上前の神話の時代です。三皇とは、燧人(すいじん)・伏義(ふくぎ)・神農(しんのう)。五帝とは、黄帝(こうてい)・顓頊(せんぎょく)・帝告(ていこく)・帝堯・(ていぎょう)・帝瞬(ていしゅん)。
私事で恐縮ですが、学校がミッションスクールだったこともあって、論語よりも先に聖書に親しんでおりました。(と云っても、必修科目であった為、読まざるを得なかったのですが)新約マタイによる福音書第七章12節に、「凡(すべ)て人に為(せ)られんと思うことは、人にも亦その如くせよ」という有名なイエスの言葉・黄金律(ゴールデンルール)があります。
二十数年前に初めて論語を読んで本章に出会した時、雷に打たれたような衝撃を受けました。「孔子はイエスと同じことを云っている!」と。正直云って、この章に出会してからなんです、孔子と対座しているつもりで論語を学ぶようになったのは。それ迄は、教養として一通り読んでおかないといかんかな?程度の軽い気持ちでした。
「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」なる文言は、顔淵第十二及び衛霊公第十五にある「己の欲せざる所は人に欲すること勿れ」程には知れておりませんが、実はどちらも子貢に対して孔子が語った言葉なんですね。どんな時どんな場面で語られたのかは分かりませんが、ともに子貢の質問に対して語ったものです。(己の欲せざる所云々は仲弓に対しても語っておりますが)孔子の死水をとったのは子貢ですし、孔子の墓の側に庵を結んで六年の喪に服したのも子貢です。(孔子貧乏教団の財政を支えたのも恐らくこの人でしょう)
子貢は人物批評を好む性癖があったようで、時々孔子にたしなめられておりますが、孔子の人となりについても子張第十九の数箇所で語っている。それらをよく読んでみますと、ひょっとしてこの男は、衛に亡命して来た孔子と最初に出会った瞬間から、孔子は聖人(神聖で侵しがたい人)である!と見抜いていたのではないか?
他の弟子達は偉大な師・偉大な賢者・偉大な君子であるとは感じていたようですが、子貢に限っては、初めから孔子に神聖なるものを感じて仕えていたのではないか!?どうもそんな気がするんですね。
釈迦もイエスも聖人は「無師(むし)独悟(どくご)」と云って、これといった師を持たず、独りで悟りを開くものととされている。つまり、君子迄は人の手で養成できるけれども、聖人は養成できるものではない、ということですね。子貢も孔子について、これと同じことを云っている、「何の常師(じょうし)か之れ有らん(孔子にはこれと決った師はいなかった)」と。
「現代人の論語」の著者」呉(くれ)智英(ともふさ)さんは、「孔子の最大の理解者は子貢だったのではないか!?」と云っておられますが、全く同感です。孔子もそのことに気づいていたのではないでしょうか、2500年後の現代でも立派に通じる黄金律(ゴールデンルール)を子貢に残した。
皆さんはこの二つをセットで覚えておいて頂きたい。「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ&己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す(己の欲する所を人に施せ)」と。
はっきり云ってしまえば、「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」で半人前、「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」が加わって一人前ということですね。
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〔 子供論語 意訳 〕 |
弟子の子貢が、「多くの人々に恵みを施して、不幸から救うことができたら、人格者といえるでしょうか?」と質問した。孔子様は、「それができたら人格者どころではない、神様のような人だ。大昔神の代理といわれた堯と瞬という二人の王様も、中々それができないといって苦労されたのだ。そんなに難しく考ず、自分がああなりたいな!?こうありたいな!?と思うことを進んでひとにやってあげる。まず身近な所で人に喜んでもらえるようなことを自発的にやる。この積み重ねが自分の人格を磨くことになるんだよ」と。
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〔 親御さんへ 〕 |
顔淵第十二及び衛霊公第十五に、「己の欲せざる所は人に施すことなかれ(自分が嫌なことは人にしむけてはならない)」とありまして、ここから転じたのでしょう、小さい頃祖母から「人様に迷惑をかけるようなことはしてはいけない!」さんざん叱られました。(かなり悪童(わるガキ)でしたから)一方母はと云えば、「人様に喜ばれるようなことを進んでやりなさい!」と云う。
祖母は明治生まれで貧しい山村の出、母は大正生まれで比較的恵まれた料理屋の出と、時代環境と家庭環境の違いもあったのかも知れませんが、今にして思えば、二つ同時に教わったことは、その後の大きな心の糧になったと思います。
「人様に迷惑をかけてはいけない!」とだけ云われて育てば、いつも周りにビクついた消極的な人間になりかねませんし、逆に、「人様に喜ばれることをやりなさい!」とだけ云われて育てば、親切の押し売りを美徳と勘違いした独善的な人間になりかねません。両方必要なんです。「人様に迷惑かけるようなことはしてはいけない!&人様に喜ばれるようなことを進んでやりなさい!」は二つでワンセットなんですね。
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