雍也第六 144

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原文                    作成日 2004年(平成16年)4月から7月
子曰、齊一變、至於魯。魯一變、至於道。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(せい)一変(いっぺん)せば()(いた)らん。()一変(いっぺん)せば(みち)(いた)らん。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「斉がもう少し変化を遂げれば、魯ぐらいになるだろう。魯がもう少し発展すれば、理想的な国になれるのだが・・・」と。
 
〔 解説 〕

斉は周創建の功労者で、文王・武王二代に仕えた太公望の建てた国。魯も周創建の功労者周公旦(武王の弟)の建てた国で、ともに周王朝を宗主に仰ぐ姉妹国同志でありますが、国風はかなり違っておりまして、魯が質実剛健を重んずる野暮ったい農業国家であったのに対し、斉は殖産興業を重んずる洗練された商業国家であったようです。

今日釣名人の事を「太公望」と云いますが、語源は斉の始祖太公望と文王の出会いの故事から来ております。太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)、姓は崔(さい) 名は呂(りょ) 字は子牙(しが)。

太公とは文王の祖父に対する尊称で、太公のお告げで文王が呂尚と出会えたことから、「太公望」という称号が与えられた、とあります。(史記・斉太公世家)太公望は、兵法書「六韜(りくとう)」・「三略(さんりゃく)」を残したとされておりますが、後世の仮託でしょう。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(せい)(くに)がもう(すこ)道徳(どうとく)(おも)んじたら、()()(こく)のようになるだろう。()()(こく)がもう(すこ)発展(はってん)すれば、理想(りそう)(くに)になれるのだがなあ・・・」と。
 
〔 親御さんへ 〕

斉の国の始祖は太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)という人物ですが、今日釣名人を「太公望」と称する由来は、次の故事から出ております。

「呂尚は貧乏で、年老いた時に、魚釣をしていて周の西伯(せいはく)(後の文王)に知られることとなったようである。西伯が猟に出ようとして、卜(うらない)を立てた所、結果は『猟の獲物は竜でもなく、蛟(みずち・大とかげ)でもなく、虎でもなく、羆(ひぐま)でもない。其の獲物は覇王の輔(たすけ)である』と出た。

西伯が猟に出ると、はたして渭水(いすい)の北で呂尚に出会った。西伯は共に語り合って大いに喜び、“我が祖父太公のお言葉に『ある聖人がゆくりなくも周に来られ、周はその力で勃興するであろう』と仰せられたと伝えられている。そなたこそまことにその人であったか。”と云い、呂尚に太公望の称号を与え、車に同乗させて一緒に帰り、師と仰ぐことにした」。

この時太公望は既に八十才を過ぎていたと云われますから、恐ろしくタフな人物だったようです。魚どころか天下を釣り上げた訳ですから、大物釣の名人を太公望と称するようになったんですね。
 

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