雍也第六 140

上へ


原文                     作成日 2004年(平成16年)4月から7月
子曰、知之者、不如好之者。好之者、不如樂之者。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(これ)()(もの)は、(これ)(このむ)(もの)()かず。(これ)(この)(もの)は、(これ)(たの)しむ(もの)()かず。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「頭で知るだけでは、経験を通して好きになることに及ばない。好きなだけでは、一心同体となって楽しむことに及ばない」と。
 
〔 解説 〕

自己と対象(人でも物でも事でも)との間には、「心理距離」即ち、心理的距離感というものがあります。知らない事柄(対象)に対しては、心理距離は無限に遠いものですが、知ることによってその距離は視界に入る所となる。知って好きになれば、心理距離はぐっと縮まり、至近距離迄接近する。

好きを通り越して人生の楽しみの一つとなれば、自己と対象は一体となって、心理距離はゼロとなる。人は、様々なものを見たり・聞いたり・触れたりしているうちに、ある特定の事柄(対象)に興味や関心を抱くようになりますが、

 興味をいだくと → もっと詳しく知りたくなる。
 もっと知ろうと努めているうちに → 段々その事柄が好きになって来る。
 好きになって来ると  →  その事柄に関わることが習慣化して来る。
 習慣化して来ると
 →もう好きとか嫌いとかを通り越して、対象イコール
                                    自己・自己イコール対象、つまり、自己と対象とが
                                    一体となる。

これが「楽しむ」ということでしょう。「その道の達人」というのは、自己と対象が一体化して、人生そのものとなってしまった人のことを云うのでしょうね。知・好・楽を、アマとプロに喩えてみれば、知→アマチュア(素人)・好→セミプロ(玄人はだし)・楽→プロフェッショナル(玄人)と云えるかも知れません。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「知識(ちしき)として()っているだけではまだまだだ。()きでやっている(ひと)にはかなわない。(すき)きでやっているだけでもまだまだだね。日常(にちじょう)生活(せいかつ)一部(いちぶ)になって(たの)しんでいる(ひと)にはかなわないよ」と。
 
〔 親御さんへ 〕

知<好<楽、つまり、楽は好に勝り、好は知に勝ると孔子は云います。ハテ、自分には生活の一部・人生の一部になってしまっているような楽しみは、何かあったかな?と考えても、何も思い当たりません。酒好き読書好き以外に何もない、所謂つまらんオッサンか?とがっくり来そうになりましたが、ふと「夜中の3時に起きだして、今こうしている俺は一体何なんだ!?」と、子供論語の原稿作りに頭を悩ませている自分に気がつきました。
 
頭を悩ませてはいるけれど、別に苦痛ではない。夜中の3時に起きることも、何とも思わない。例会日間近になれば、原稿を間に合わせる為に徹夜になることも屡々(しばしば)あるが、少しも苦痛ではない。論語を職業としている訳でもないのに、足掛け12年も論語の勉強会を続けて、
少しも飽きることがない。

皆さんは月一回ですが、私は、青年部を入れると毎月四回の例会をこなしている訳で、論語に学び、学びて語ることが、いつの間にか生活の一部・人生の一部のようになってしまっている。そうか!これが楽しむということか!?自分にも「楽しみ」というものがあったんだ!!と、たった今気を取り直したところであります。

習慣化し、人生の一部になっているような事柄に対しては、楽しみを楽しみと自覚しないのかも知れませんね、余りにも当たり前過ぎて。「楽しい!楽しい!」などと云っているうちは、まだ本当に楽しんでいないのかも知れません。「何でそんなものが楽しいんだ?」どこがそんなに楽しいんだ?」と聞かれても、孟子の「浩然の気」ではないけれど、「日く云い難し」で、言葉では何とも説明しにくい、という他はないようですね、楽しみというものも。
 

雍也第六 139 雍也第六 140 雍也第六 141
新論語トップへ