雍也第六 137

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原文                   作成日 2004年(平成16年)4月から7月
子曰、誰能出不由戸。何莫由斯道也。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(たれ)()()ずるに()()らざらん。(なん)()(みち)()ること()きや。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「人は誰でも出入りするのに戸口を通らぬ者はいないというのに、どうして人として踏み行うべき道を通ろうとしないのだろうか」と。
 
〔 解説 〕

では、人として踏み行うべき道・「斯の道」とは何か?と云えば、これが再三再四述べている五つの実践徳目、仁・義・礼・智・信なる五徳ですね。これも何度も云っているように、孔子自身が述べたものではなくて、前漢の董仲舒(とうちゅうじょ)が「五常(ごじょう)」としてまとめたものであります。

更に、論語を百回くらい読んでみた結果から、私は、仁・義・礼・智・信なる五徳は同列・並列ではなくて、「徳はすべて仁ベース」つまり、仁あっての義・仁あっての礼・仁あっての智・仁あっての信である!と感得した訳です。

仁とは人を思いやる心、つまり利他の愛・与える愛のことですが、これが人の踏み行う道の根本(土台)である!という確信は、以後一度も揺らいだことがありません。

当会が発足したのは今から12年前、私が45才の時ですが、論語から「徳はすべて仁ベース」であると教えられたことは、今世最大の収穫だったように思います。そうでなかったら、未だに仁に根ざさぬ義を振り回して正義面をし、仁に根ざさぬ礼を振り回してその場しのぎの愛想を振り撒き、仁に根ざさぬ智を振り回して人を蹴落とし、仁に根ざさぬ信を振り回してバール信仰(ご利益宗教)にはまっていたかも知れません。

バブルがはじけてからの10年間を「失われた十年」と云う人もおりますが、私達「論語に学ぶ会」のメンバーにとっては、「涵養の十年」であったと云えるのではないでしょうか。ひと月にたった2時間の例会(学習時間)に過ぎませんが、「塵も積もれば山となる」の格言の如く、合同例会の時間も含めれば10年×12回×2時間=240時間、一日1時間の学習時間を取ったとすると、延べ240日間に相当する。

これは、土日祭日を除いた一年間、毎日一時間ずつ論語を学んでいた勘定になる。毎日一時間、一年間読み続けた本など他にないでしょう?今迄に。それだけでもちょっとしたものなんですよ、皆さんは!
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(いえ)出入(ではい)りする(とき)出入(でいり)(ぐち)(とお)らない(ひと)(だれ)もいないのに、(ひと)としてやらなければならない奉仕(ほうし)活動(かつどう)をどうして()けようとするのだろうか?」と。
 
〔 親御さんへ 〕

奉仕活動は相手を生かす・人を生かす為にやるものであって、自己満足したい為にやるものではありません。だから自己満足が動機のボランティアは偽善だと云うのです。

相手を生かす・人を生かす、これは仁の第三段階「忠恵(ちゅうけい)」・忠(まめ)やかで恵み深いことであります。忠(まめ)とは、誠実なこと・真心がこもっていることの意ですから、忠恵とは「真心で奉仕する・人に尽くすこと」と考えて良いでしょう。

孔子は「真心で奉仕すること」が、どうして人として通らなければならない道と云ったのでしょうか?仁とは利他の愛・与える愛であると、何度も述べて参りました。そして、仁にも五段階の階悌があると申しましたが、

第一段階「孝悌」・親に孝行目上に悌順とは、養い育ててもらう側が養い育ててくれる側に対する畏敬の気持を、態度で表すものですから、これは厳密に云えば、与える愛というよりは、寧ろ下位者(年少者)の上位者(年長者)に対する「依存の愛」というものに近い。

第二段階「恭敬(きょうけい)」・恭しく敬(つつし)み深いとは、交友に於けるマナーや切磋琢磨の姿勢と考えて良いかと思いますが、これも厳密に云えば、与える愛というより「ギブアンド
テイクの愛」に近い。

第三段階「忠恵(ちゅうけい)」・忠(まめ)やかで恵み深い、つまり、人を生かす仁、ここからが本格的な仁・利他の愛・与える愛、「奉仕の愛」と云えるのではないでしょうか。

第四段階「寛恕(かんじょ)」・心が寛(ひろ)く人を恕(ゆるす)、つまり、人を許す仁、これは仁のプロフェッショナル、与え続ける「献身の愛」と云えるでしょう。

第五段階「忠恕(ちゅうじょ)」・衆生済度人類救済、人を救う仁、ここまで来るともう仁の塊そのもの、与え尽くす「神の愛」とも云えるでしょう。

仁という言葉は論語に五十数箇所出て来ますが、孔子は「仁者」と認めているのは、どうも第三段階「忠恵」以上の体現者を指すようです。恵みの中でも最高最大のものは、教育する・教え育むこと、これは本人の一生の宝になります。物や金はその場限りですからね、与えても。仁の第三段階「忠恵」が、人の上に立つ者・リーダーとしての最低要件と考えて良いでしょう。

人を生かす仁・真心で奉仕する気持・人に尽くす気持のない者が、リーダーシップをとったり人を教えたりするから、世の中おかしくなってしまうんですね。智だけ突出してもダメなんですよ、指導者は。しっかりと仁に根ざしていなければ。

孔子は、小賢しく屁理屈を捏ね回して得意になっている人々を見て、本章のような言葉を漏らしたのではないでしょうか?「お前達は本当に分かって云っているのか?」と。真に自分を生かそうと思ったら、先ず人を生かすことです。人を生かして初めて大きな仕事が成し遂げられるんですね。立派な指導者・優れたリーダーは、例外なく「人生かし」の名人です。
 

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