公冶長第五 117

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原文         作成日 2004年(平成16年)2月から3月
子曰、巧言令色足恭、左丘明恥之、丘亦恥之。 匿怨而友其人、左丘明恥之、
丘亦恥之。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、巧言(こうげん)令色(れいしょく)(すう)(きょう)なるは、()(きゅう)(めい)(これ)()ず、(きゅう)(また)(これ)()ず。(うら)みを(かく)して()(ひと)(とも)とするは、()(きゅう)(めい)(これ)()ず、(きゅう)(また)(これ)()ず。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「言葉巧みで、やたらに愛想が良くて、度の過ぎた恭しさは、左丘明の恥ずる所であったというが、私も亦恥ずかしいことと思う。心の底では怨みを抱きながら、表面(おもてづら)だけ親しそうに友達付き合いするのは、左丘明の恥する所であったというが、私も亦恥ずかしいことと思う」と。
 
〔 解説 〕

左丘明 春秋左氏伝を書いたといわれる左丘明とは別人のようだが、はっきりしない。魯の役人で孔子の先輩に当るという説もあるが不明。(孔子が自分のことを丘と名で呼び、相手をフルネームで呼んでいる所を見ると、先輩には違い無いと思えるが)
 
孔子は、実がないのに上辺だけ飾ることを大変嫌った人でした。「巧言・令色・足恭」は、媚び諂う卑しい態度、「怨みを匿して友とす」とは、己を欺く虚しい行為、と、考えていたようです。媚び諂うくらいなら潔くしろ!己を欺くくらいなら相手と和解しろ!と云いたかったのではないでしょうか。
 
商売をやっている人にとっては耳の痛い言葉ではないかと思いますが、考えてみれば商道(しょうどう)とは正道(しょうどう)のことですから、客に迎合するだけが脳じゃない!とも云えますね。(値引き商法をやった所は、みんなダメになりました)。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(くち)上手(じょうず)で・おべっか(わら)い・へいこらするのは、(ひと)として()ずかしいことだと()(きゅう)(めい)さんは()ったが、(わたし)(また)そう(おも)う。(こころ)(なか)では(うら)んでいるのに、おくびにも()さず(した)しそうに友達(ともだち)づきあいするのを()(きゅう)(めい)さんは()じたというが、(わたし)もまたそう(おも)う」と。
 
〔 親御さんへ 〕
孔子は、媚び諂うことや自分自身に嘘をつくことを大変に嫌った人でした。人は元来真っ直な生きものだと思うのですが、いつの間にかヒネったりクネったりして曲がってしまう。いきなり曲がるのなら周りも気がつきますから、叱ったり、正したりすることも出来ますが、本人も周りも気がつかないうちに、少しずつ少しずつ曲がって行きますので、何とも始末に負えない。
 
人の曲がった所はよく見えますが、自分の曲がった所となると、全く見えないものですから、自分は真っ直だと錯覚してしまう。こういう時に、ズバッと直言してくれる友がいるというのは、ありがたいことですね。直言されて腹を立てたり根に持ったりするようでは、最早そこ迄の人。直言は耳に痛く口に苦いから効くんですよ。
 
結構いるんですよ、直言されるとプイッとなるのが。否、プイッとなるのはまだ可愛いい方で、しれっとして根に持つようになったらおしまいだね、怨念は魂を腐らす猛毒だらね。
 
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