公冶長第五 113

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原文          作成日 2004年(平成16年)2月から3月
子曰、寗武子、邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也。}愚不可及也。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(ねい)武子(ぶし)(くに)(みち)あるときは(すなわ)()なり。(くに)(みち)()きときは(すなわ)()なり。()()(およ)ぶべきなり。()()(およ)ぶべからざるなり。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「衛の大夫寗武子は、国がよく治まっている時は表に立って知者として辣腕を振るい、国が乱れた時は裏に廻って愚者のように損な役回りを演じた。調子のいい時に利口者ぶることは誰でもできるが、国難に当って愚直一徹を貫くことはできるものではないな」と。
 
〔 解説 〕

寗武子 姓は寗、名は兪(ゆ)、武は諡。孔子より百年ほど前の人で、衛の大夫。朱子は、「成公(衛君)道無く、国を失うに至り、武子其の間に周旋し、心を尽くし、力を尽くし、艱難を避けず。凡そ其の処(お)る所は、皆知巧の士の深く避けて肯(あえ)て為さざる所の者なり。しかも能く卒(つい)に其の身を保ちて以て其の君を済(すく)う。是れ其の愚の及ぶべからざるなり」と、寗武子が並々ならぬ人物であったことを讃えている。
 
利口者ぶることは易しいが、愚か者ぶることは難しいものです。西洋では外見も利口で中身も利口でないと通らないようですが、東洋では、外見は馬鹿で中身は利口が一目置かれる。利口そうで馬鹿は相手にされない。中身はともかく外見位は利口者に見られたい、と思うのが我々凡人の性(さが)でありますが、気をつけないといけませんね、世の中明き盲ばかりではありませんから。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(えい)(くに)大臣(だいじん)をやった(ねい)武子(ぶし)は、(くに)がよく(おさ)まっている(とき)(おもて)舞台(ぶたい)采配(さいはい)()るったが、(くに)(みだ)れた(とき)裏方(うらかた)(まわ)って(つら)仕事(しごと)()()けて(がん)()った、(えん)(した)力持(ちからもち)のような(ひと)であった。カッコイイ仕事(しごと)(だれ)でもやりたがるが、カッコワルイ仕事(しごと)(すす)んで()()ける(ひと)は、滅多(めった)にいないものだ」と。
 
〔 親御さんへ 〕
順境には強いが、逆境に遇うと途端にダメになってしまう人がいるかと思えば、順境では一向目立たないが、逆境に遇うと俄然力を発揮する人もいる。順境にも逆境にも強いというのが理想ですが、これは中々難しい。順境の時は舞い上がり、逆境に遇うと傷悴(しょうすい)しきってしまうのが大多数ではないでしょうか。

思えば、順境の時に試されるのは、能力・手腕が主で精神・根性が従、逆境の時は、精神・根性が主で能力・手腕が従の関係となる。最近は忍耐という言葉があまり聞かれなくなりまして、あったとしても、スポーツの世界で肉体を鍛錬する時に使うくらいのものでしょう。精神的忍耐力を鍛えることなんて、戦後は何もして来なかったのではないでしょうか?逃げよう避けようとするばかりで。親も子もキレ易くなったのはそのせいですね。

仏教では精神的な忍耐を「忍辱(にんにく)」と云って、大切な修業項目の一つになっておりますが、精神的忍耐力を鍛えるには、逆境に遭って鼻っ柱をへし折られたり・名誉を毀損されたり・辱めを受けたりしながらも、じっと耐える経験をしてみないと身に付かないようですね。人様のことは何とでも云えますが、いざ自分のこととなると、まったく明き盲ですからね、我々凡人は。

因みに、仏教でいう六つの修業項目を「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と云って、一、布施(ふせ・施し恵む)、二、持戒(じかい・戒を堅く守る)、三、忍辱(にんにく・辱めを耐え忍ぶ)、四、精進(しょうじん・努力し励む)、五、禅定(ぜんじょう・精神を統一し瞑想する)、六、智慧(ちえ・物事の理を悟る)ことをいいます。
 
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