公冶長第五 111

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原文          作成日 2004年(平成16年)2月から3月
子張問曰、令尹子文、三仕爲令尹、無喜色。三已之、無慍色舊令尹之政、
必以告新令尹。
何如、子曰、忠矣。曰、仁矣乎。曰、未知、焉得仁。
崔子弑齊君。陳文子有馬十乘、棄而違之。至於他邦、則曰、
猶吾大夫崔子也。違之。至一邦、則叉曰、猶吾大夫崔子也、違之。
何如。
子曰、清矣。曰、仁矣也。曰、未知、焉得仁。
 
〔 読み下し 〕
()(ちょう)()うて()わく、令尹(れいいん)()(ぶん)()たび(つか)えて令尹(れいいん)()れども、(よろこ)(いろ)()し。()たび(これ)()められども、(うら)(いろ)()し。(きゅう)令尹(れいいん)(まつりごと)(かならず)(もっ)(しん)令尹(れいいん)()ぐ。如何(いかん)()(のたま)わく、(ちゅう)なり。()わく(じん)なりや。(のたま)わく、(いま)()らず、(いずく)んぞ(じん)なるを()ん。崔子(さいし)(せい)(きみ)(しい)す。(ちん)文子(ぶんし)(うま)十乗(じゅうじょう)()り、()てて(これ)()る。他邦(たほう)(いた)りて(すなわ)()わく、(なお)()大夫(たいふ)崔子(さいし)がごときなりと。(これ)()る。一邦(いっぽう)(いた)りて(すなわ)(また)()わく、(なお)()大夫(たいふ)崔子(さいし)がごときなりと。(これ)()る。如何(いかん)()(のたま)わく、(せい)なり。()わく(じん)なりや。(のたま)わく、(いま)()らず、(いずく)んぞ(じん)なるを()ん。
 
〔 通釈 〕
子張が「楚の令尹(宰相)であった子文は、三度令尹に任ぜられましたが、特に喜ぶ様子も ありませんでした。逆に、三度令尹を罷免されましたが、何ら不平の色も見せませんでした。退任する時は新任の令尹にこれまでの政務を詳細に申し送りしました。これはいかがですか?」と問うた。 孔子は「忠実な人だな」と云った。子張は「仁者とは云えませんか?」と尋ねた。孔子は 「さあどうかな?忠実なだけでは仁者とは云えまい」と答えた。と

更に子張は「斉の大夫崔子が斉の荘公を殺害した時、同じ斉の大夫であった陳文子は、 馬四十頭もの財産を捨てて斉を去りました。そして他の国へ行きましたが『ここにも吾が国の崔子のような悪家老がいる』と云って立ち去り、又別の国へ行っても『ここにも崔子のような 奴がいる』と云って立ち去りました。これはいかがですか?」と問うた。 孔子は「潔白な人だな」と云った。子張は「仁者とは云えませんか?」と尋ねた。孔子は 「さあどうかな?潔白なだけでは仁者とは云えまい」と答えた。
 
〔 解説 〕

令尹とは宰相のこと。子文 姓は闘(とう) 名は穀於菟(こくおと) 字は子文。孔子が生まれる百年程前の人。崔子 姓は崔 名は杼(ちょ) 字は武子(ぶし)。斉の大夫。崔子が斉の荘公を殺害したのは、孔子5才頃の出来事。

陳文子 姓は陳名は須無(しゅぶ)、文は諡。斉の大夫で崔子の同僚。一乗とは馬四頭立てで引く馬車のことで、十乗と云えば馬四十頭のこと。当時は財産を数えるのに、所有する馬の数を以てする習慣があった。現代で云えば、陳文子はベンツやロールスロイスを十台も持っている資産家ということになりましょうか。

「仁」の概念(ロゴス)が弟子達には何とも掴みづらかったようで、論語に中では五十箇所以上も仁についての問答がありますが、孔子自身「仁とはこうだ!」と明確に定義してはおりません。「人を愛す」・「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」・「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」・「己に克ちて礼に復かえる」・「言や忍ぶ」等々、弟子達の機根や性分に合わせて、手を変え品を変えて「〜のようなものだ」と隠喩を用いて語っている。

仁の隠喩の極め付けは、衛霊公第十五の「志士仁人(使命に目覚めた者)は、生を求めて仁を害することなく、身を殺して以て仁を成すこと有り」と、あたかもイエスキリストの生涯を予言すかのようなことを云っている。仁とは月並みな言葉で云えば、「与えっぱなしの愛」・「見返りを求めない愛」・「利他の愛」・「無前提無条件の愛」とでも云ったらよいのでしょうか、

私はこれを五段階に分けて、第一段階「孝悌」〜第二段階「恭敬」〜第三段階「忠敬」〜第四段階「寛恕」〜第五段階「忠恕」と、分かり易いようにお話ししておりますけれども、孔子の云う「仁」とは、もっともっと奥が深くて、人間の言葉では翻訳しきれないのかも知れません。

仁の五段階など、考えようによっては僭越極まりないことかも知れませんが、そうですねえ、「人と人として在らしめ成らしめている宇宙の生命エネルギーのようなもの」・「人間の本質たる魂のレーゾンデートルのようなもの」。これを孔子は「仁」と表現したのではないでしょうか。

仁とは「不立(ふりゅう)文字(もんじ)」で、言葉や文字では表現しきれないもののようです。「イエスキリストの愛を説明してみろ!」と問われて、誰も答えきれないのと一緒ですね。孔子の「仁」を解明できたら、思想界のノーベル賞ものではないでしょうか?否、仁とは観念的に伝々するものではなくて、感得・体現しなければ何にもならんもののようです。だから孔子は「〜のようなものだ!」と、弟子達が実践できるよう、一人一人違った喩えを引いて説いたのでしょう。
 

〔 子供論語  意訳 〕
弟子(でし)()(ちょう)が、「()(くに)総理(そうり)大臣(だいじん)であった()(ぶん)は、三度(さんど)総理(そうり)大臣(だいじん)(えら)ばれましたが、特別(とくべつ)(うれ)しがる様子(ようす)はありませんでした。(ぎゃく)に、三度(さんど)総理(そうり)大臣(だいじん)をクビになりましたが、特別(とくべつ)(くや)しがる様子(ようす)もありませんでした。(やめ)める(とき)には、これまでの仕事(しごと)後任(こうにん)(ひと)にきちんと()()ぎました。この(ひと)はどういう人物(じんぶつ)でしょうか?」と質問(しつもん)した。孔子(こうし)(さま)は、「仕事(しごと)(ちゅう)(じつ)(ひと)だね」と(こた)えた。()(ちょう)は「人格者(じんかくしゃ)[仁者(じんしゃ)]とは()えませんか?」と()うた。孔子(こうし)(さま)は「さあどうかな?忠実(ちゅうじつ)なだけでは人格者(じんかくしゃ)とは()えないだろうね」とおしゃった。()(ちょう)(さら)に、「(せい)(くに)大臣(だいじん)崔子(さいし)殿様(とのさま)(ころ)した(とき)同僚(どうりょう)であった(ちん)文子(ぶんし)は、(うま)四十頭(よんじゅうとう)やその()財産(ざいさん)すべてを()てて、外国(がいこく)()きましたが、『ここにも崔子(さいし)のような悪人(あくにん)がいる』と()って(べつ)(くに)()き、『ここにも(また)崔子(さいし)のような悪人(あくにん)がいる』と()って()()りました。この(ひと)はどういう人物(じんぶつ)でしょうか?」と質問(しつもん)した。孔子(こうし)(さま)は、「潔白(けっぱく)(ひと)だね」と(こた)えた。()(ちょう)は「人格者(じんかくしゃ)とは()えませんか?」と()うた。孔子(こうし)(さま)は「さあどうかな?潔白(けっぱく)なだけでは人格者(じんかくしゃ)とは()えないだろうね」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕
孔子の云う「仁」は深遠で、仁とはこうだ!と明確に定義することはできません。一番無難な解釈は「思いやり」或いは「慈しみ」とするものですが、朱子は「天道の発現体」つまり、天の意志(道)が発現したものと云っている。釈迦は「一切衆生(いっさいしゅじょう)悉有仏性(しつうぶっしょう)」・生きとし生けるものはすべて仏性(神仏の種)を宿している、と説いておりますが、この仏性が仁に相当すると考えて良いかも知れません。

種の中にある胚乳の部分を「仁」と云って植物はすべてここから芽を出す。これがなければ死滅してしまう、生命の源のような部分を仁と称する訳ですが、一体誰が最初に名付けたものか、仁というものの核心を突いているのではないでしょうか。私が生意気にも「徳はすべて仁ベース(土台)である!」と云うのは、種の胚乳を仁に喩えたように、建物の土台を仁に喩えたものなのですが、種の仁の方は分かり易かったかな?
 
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