里仁第四 068

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原文         作成日 2003年(平成15年)11月から12月    
子曰、不仁者、不可以久處約。不可以長處樂。仁者安仁、知者利仁。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、不仁者(ふじんしゃ)(もっ)(ひさ)しく(やく)()るべからず。(もっ)(なが)(らく)()るべからず。仁者(じんしゃ)(じん)(やす)んじ、知者(ちしゃ)(じん)()す。
 
〔 通釈 〕

孔子云う、「不心得者は、永く逆境に耐えることができないし、長く順境を楽しむことができないものだ。真の仁者はいかなる境遇にあっても利他の気持(仁の境地)を失うことなく安逸であるし、真の知者は仁の境地とまでは行かなくとも、徳はすべて仁ベースであることを知っているから、仁を応用する(利す)ことを心掛けている」と。
 

〔 解説 〕

「仁を利す」とは、応用するとか増幅するという意味に解釈しました。仁者とは、無意識自然体で仁の境地に安んじている人のことですから、これは生易しいことではありません。存在自体が仁の塊(かたまり)みたいなものですからね。

これに対して知者とは、意識して仁の実践を心掛ける人、日常の様々な場面で仁を応用してみる人のことを孔子は云っているようですから、これなら私達にも何とかなりそうです。

孔子
教学は別名「君子の学(リーダーシップの学)」と云われておりまして、「修己治人」・先ず自己を修練して然る後に人の上に立って治める、というのが基本ですから、仁にしても鍛え上げて行かないと身に付かないもののようです。

大君子は無理としても、努力すれば中君子か小君子にはなれるのではないでしょうか。如何なる境遇にあっても安んじていられる仁者とは、「自分が自分自身の現実を創り出している」
ことを真に知った人のことを云うのでしょう。でなかったら、逆境にあってはオロオロし、順境にあってはソワソワするばかりで、一時も安んじてなんか居られませんものね。
 

〔 一言メッセージ 〕
『仁は天から降って来るものではない。鍛え上げて行くものである』
 
〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「自己(じこ)中心的(ちゅうしんてき)でわがままな(もの)は、じっと我慢(がまん)することができないし、(こころ)から(みな)()(とけ)けて(たの)しむことができないようだ。君達(きみたち)は、(ひと)(こま)っている(とき)()()ぬふりをしてはいけないよ。(なに)(ちから)になってあげられることはないか?よーく(かんが)えて、()()してあげなさい!お(たが)いさまなんだからね」と。
 
〔 親御さんへ 〕

孟子の公孫丑(こうそんちゅう)章句に「人皆人に忍びざるの心あり(人には誰でも他人の不幸を平気で見ているには耐えられない心があるものだ)」・「惻隠(そくいん)の心無きは人に非ざるなり(人を哀れむ気持のない者は人間ではない)」・「惻隠の心は仁の端(たん)(人を哀れむ気持は仁の心が芽生える第一歩)」とあります。惻隠の心のない者を「薄情者」といいますが、薄情者は人間ではない!ということになりますね。

普段私達が、「こいつは薄情者だな!」と思うのはどんな場合だろうか?と考えてみますと、
万事に自己中心的で「人の痛みの分からない人物」に出くわした時ではないでしょうか。人の痛みが分からないと、「お互い様」ということが分からないんですね。

人生の途次で、滑ったり・転んだりして痛い目に遭ったことが一度もない人などいないと思うのですが、どういう訳か「自分の痛みを分かって欲しい!」と思う割には、人の痛みを分かろうとしないようですね、薄情者は。

そういえば、銀座のクラブのママさんが、「できる男・できない男の見分け方」という本の中で、「できる男(大成する人物)というのは、大病したり・倒産したり・大失敗したり等々、過去にかなり痛い目に遭った経験があって、人の痛みが分かるようになった人物である」と云うようなことを語っておりました。

人の痛みが分からない人間は、公務員以外では出世は諦めた方が良いのかも知れません。人の痛みが分かりませんと、「人を容(い)れる器」が育ちませんから、結局「人貧乏」になってしまうんですね。どうかお子さんを「人の痛みの分かる」人間に育ててあげて下さい。薄情な
ことをしたら、厳しく叱ってあげて下さい。
 

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