八佾第三 058

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原文                  作成日 2003年(平成15年)7月から 10月
子曰、事君盡、人以諂也。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(きみ)(つか)うるに(れい)(つく)せば、(ひと)(もっ)(へつら)えりと()すなり。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「私が主君に礼を尽くして仕えていると、周りの人は、ゴマをすっていると陰口を叩く。下臣として当たり前のことをやっているだけなのだが」と。
 
〔 解説 〕

礼を尽くす事とゴマをする事と、一体どこで線引きすれば良いか?難しい所ですが、要は、相手を敬う気持の有る無しで決まるのではないでしょうか。為政第二で学んだように「其の以(な)す所を視(み)、其の由(よ)る所を観(み)、其の安んずる所を察(み)れば」大概分かってしまうようですね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「殿様(とのさま)におつかえするのに礼儀(れいぎ)(ただ)しくしていると、まわりの(ひと)(たち)が、またゴマをすっていると非難(ひなん)する。(わたし)家来(けらい)として()たり(まえ)のことをやっているつもりなのだが、あの(ひと)(たち)()たり(まえ)のことを()たり(まえ)にやることが、そんなにいやなのだろうか」と。
 
〔 親御さんへ 〕
当たり前のことを当たり前にやるのは本当に難しい。何が当たり前のことなのか?を決める物差しは、知識や理屈ではなく、前章にもあった伝統文化、特に伝統に培われた「精神文化」なんですね。

ところであなたは、「日本人の誇るべき精神文化とは何ですか?」と問われたら、どう答えますか?私は迷わず「武士道精神」と答えます。「大和心(やまとごころ・大和魂)」を挙げる方もおられるかと思いますが、「武士道精神」は「大和心」が下敷きになっておりますから、二つをハイブリッドして「日本精神」と云っても良いかもしれませんね。

安岡正篤先生が亡くなられてから、「日本精神」を説く人が見当らなくなりました。ある対談集で、著名な書誌学者(谷沢永一)が、安岡先生を「説教幇間だったのではないか?」と述べ、その理由として「戦前戦後を通じて、50年間も主義主張が変わらないのはオカシイ」と語っておりましたが、50年やそこいらでコロコロ変わる主義主張の方がむしろオカシイのであって、そんなものは伝統精神とは申しません。

釈迦や孔子の主義主張も、50年でコロコロ変わったんでしょうかね?そんなことないでしょう!50年そこそこで変わってしまう主張など、「気紛れ談義」というんじゃないですか!?五十年どころか、三百年も五百年も変わらない主義主張を「伝統精神」と云うんですね。

私は谷沢永一さんのファンですから、肩を持つ訳ではありませんが、あの発言は、谷沢さんと気の合う渡部昇一さんとの対談の中で交わされたものですから、興に乗って口を滑らせてしまったのかも知れません。確かな人ですからね、谷沢さんは。無定見・無前提で安岡先生を無謬化する人に対する「紙つぶて」だったのでしょうね、きっと?
 
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