八佾第三 053

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原文                  作成日 2003年(平成15年)7月から 10月
王孫賈問曰、其媚於奧、寧媚於竈、何謂也。子曰、不然。獲罪於天、
無所祷也。
 
〔 読み下し 〕
王孫(おうそん)()()うて()わく、()(おう)()びんよりは、(むし)(そう)()びよとは、(なん)()いぞや。()(のたま)わく、(しか)らず。(つみ)(てん)()れば、(いの)(ところ)()きなり。
 
〔 通釈 〕
衛の大夫王孫賈が、「『奥の神様に媚びるより、竈の神様に媚びよ』という諺がありますが、どういう意味ですか?」と問うた(君主に媚びるよりは、実権のある倍臣に媚びよという謎かけ)。

これに対して孔子は、「その諺は間違っている。どの神様に対してもご機嫌を取る必要などない。天の神様はすべてお見通しであって、道に外れたことをすれば天罰を受ける。天に対して犯した罪は、どの神様に祈ったところで無駄だね」と答えた。
 
〔 解説 〕

王孫賈は衛の霊公に仕えた名臣といわれておりますが、そういう人物でも、ゴマすりには弱いもののようです。二千五百年経った現在でもこれは変わらないようで、「奥に媚びんよりは寧ろ竈に媚びよ」を地で行って、贈収賄で御用となる事件が後を断ちません。「奥に媚びんよりは寧ろ竈に媚びよ」を、日本の諺に言い替えるとすれば、「長い物には巻かれよ」になるでしょうか。「寄らば大樹の蔭」ってのはどうか?と思われるかも知れませんが、これはちょっとニュアンスが違うようですね。

「長い物に巻かれよ」も「寄らば大樹の蔭」も、共に打算的であることには違いありませんが、「長い物に巻かれよ」は、主体は常に相手方にあって、当方はただ従属するのみですから、云ってみれば『盲目の打算』であるのに対し、「寄らば大樹の蔭」は、当方に主体がありますから『目明きの打算』と云えるのではないでしょうか。「寄らば大樹の蔭」で力を付けて、後に大成したという例はいくらでもありますが、「長い物には巻かれよ」で大成したという話しは聞いたことがありません。

何でもかんでも打算的(計算ずく)というのも寂しい限りですが、ある程度打算が働きませんと、現代社会では生きて行けません。衣食住全てを自給自足で賄えれば別ですが、今の日本には一人もいないでしょう、こういう人は。ただ、同じ打算であっても、『盲目的・従属的打算』で行くか、『開明的・主体的打算』で行くかの違いなんですね、要は。盲目的・従属的打算の人、多いですよ、近頃は。
 

〔 一言メッセージ 〕

『現代社会ではある程度の打算は必要。同じ打算であるならば、盲目的打算者よりも開明的打算者たれ!』
 

〔 子供論語  意訳 〕
(えい)(くに)家老(かろう)王孫(おうそん)()という(ひと)が、「(なが)(もの)には()かれよ、(()(わる)いは(べつ)にして、(ちから)のある(ひと)には(だま)って(したが)っていた(ほう)(とく)をする) という(ことわざ)がありますが、どういう意味(いみ)でしょうか?」と質問(しつもん)した。孔子(こうし)(さま)は、「その(ことわざ)間違(まちが)っているね。神様(かみさま)はすべてお見通(みとお)しだから、(わる)いことをすれば天罰(てんばつ)(くだ)って、(とく)をするどころか大損(おおぞん)をこうむることになる。そうなってから『神様(かみさま)どうかお(たす)(くだ)さい!』と(いの)ったところで、もう手遅(ておく)れなんだね。だから君達(きみたち)は、損得(そんとく)よりも善悪(ぜんあく)(さき)(かんが)えて行動(こうどう)しなさい!」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕

「打算的な人」というと、一般的には何事も算盤ずくで考える人のことを指しまして、あまり良い意味に用いられることはないようですが、打算の本来の意味は、計算するとか見積もるの意で、これが欠落しておりますと企業は成り立ちませんし、家庭も国家も成り立ちません。

ですから、打算そのものは、善でも悪でもなく、価値中立的なものなんですね。要は程度の
問題なんです。後先を考えず・周囲のことも考えず「今さえ良ければ・自分さえ良ければ」という打算か?後先を考え・周囲のことも考えた打算か?ということですね。

前者を「盲目的打算」、後者を「開明的打算」と申します。後者・開明的打算の代表例は、
小林虎三郎の「米百俵」でしょうか。前者の代表例は「雪印事件」ですかな?「罪を天に獲(え)て」願いも虚しく潰れてしまいました。

やはり、自分も良し・相手も良し・周りも
良しの「三方良し」でないと、長続きしないようですね、何事も。マンデビルの云う「個人の悪徳は全体の美徳である」というのは嘘なんですよ、本当の所はね。
 

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