八佾第三 052

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原文                       作成日 2003年(平成15年)7月から 10月
祭如在、祭神如神在。子曰、吾不祭、如不祭。
 
〔 読み下し 〕
(まつ)ること(いま)すが(ごと)くし、(かみ)(まつ)ること(かみ)(いま)すが(ごと)くす。()(のたま)わく、(われ)(まつり)(あずか)らざれば、(まつ)らざるが(ごと)し。
 
〔 通釈 〕
孔子が先祖の祭りを執り行う際には、あたかもご先祖の魂がそこに臨在するかのように畏敬の念を捧げた。又、神様を祭る場合には、あたかも神様がそこに降臨されているかのように敬虔な態度を示した。そして、「祭りを執り行うのに、こうしないと祭った気がしないのだ」と云った。
 
〔 解説 〕

孔子は神や霊魂の存在を認めていなかった!という人に時々出会しますが、なぜか?と聞くと、その論拠として決まって引合いに出されるのが、雍也第六の「鬼神を敬してこれを遠ざく」や、述而第七の「怪力乱神を語らず」や、先進第十一の「未だ人に事(つか)うること能わず、いずくんぞ鬼に事えん」というものです。

「論語全篇読んでみましたか?」と聞きますと、「ええ一応」と答えますが、「八佾第三は?」と重ねて問いますと、「あそこはつまらないからいつも飛ばし読みです」というのが大方のようです。「孔子は神や霊魂の存在をちゃんと認めていますよ」と云ってこの章を見せますと、
「ああ本当ですね」と一様に納得されるようです。論語を読んでいる方でも、この八佾第三は、飛ばし読みされてしまうことが多いようですね。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)法事(ほうじ)(おこ)なう(とき)は、ご(せん)()(たましい)がそこにいるかのようにうやうやしく(おこ)なった。(また)神様(かみさま)のお(まつ)りには、神様(かみさま)がそこに()りて()ているかのように、()()きしめて(おこ)なった。そして、「ご(せん)()(さま)神様(かみさま)(まえ)ではいつも緊張(きんちょう)するね。すべてお見通(みとお)しだからね」とおっしゃった。
 
〔 親御さんへ 〕

戦後の唯物主義教育を受けて育った世代は、あの世や霊魂の存在など信じられない!という人が多いのではないでしょうか。信仰を持たない家庭で育った方は尚更ではないかと思いますが、「ある筈がない!」などと否定する前に、一度「パスカルの賭け」を利用してみてはいかがでしょうか。

パスカル(1623〜1662 フランスの哲学者・数学者)の名は「考える葦」や天気予報のヘクトパスカルで有名ですが、これ程頭の良かった人が考えても考えてもあの世や霊魂があるのかないのか分からなかった。そこで一つひらめいた、「ない!としてもしあの世があったら、大変な事になる(地獄の業火で焼かれる)。ある!としてもしあの世がないならば、それはそこで終わり。ある!としてあの世があったら、大正解(天国で永遠の生命を得る)。ない!としてあの世がなくても、それもそこで終わり。ならば私はある!方に賭けるとしよう」というものです。
つまり四者択一ですね。これを分かり易く整理してみると、次のようになります。
    


こういうのをミニマックス原理と云いまして、最悪の事態を想定して最良を採る考え方を云い
ます。まあ、戦略的発想の一つですね。

@かAの「あの世はない!」を採った場合、最悪は×の地獄行き、最良でもプラスマイナス
±0にしかなりませんから、ミニマックス原理からすれば、この考えは採用できません。

BかCの「あの世はある!」を採った場合は、最悪でもプラスマイナス±0、最良は○の天国行きになりますから、ミニマックス原理からすれば、当然この考えを採用することになる訳です。これ位は覚えておいて損はないでしょう。
 

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