八佾第三 051

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原文                  作成日 2003年(平成15年)7月から 10月
或問禘之説、子曰、不知也。知其説者之於天下也、其如示諸斯乎。指其掌。
 
〔 読み下し 〕
(ある)るひと(てい)(せつ)()う。()(のたま)わく、()らざるなり。()(せつ)()(もの)天下(てんか)()けるや、()(これ)(ここ)()るが(ごと)きかと。()(たなこごろ)(ゆびさ)す。
 
〔 通釈 〕
或る人が帝祭の内容を質問した。孔子は、「私は知りません。もしそれを知っている人がいたら、天下をここに乗せて見るようなものでしょう」と云って掌(てのひら)を指差した。
 
〔 解説 〕

これはちょっと説明しないと、意味が通じないでしょう。帝祭の儀式は元来天子のみが執り行う秘儀とされていたようで、詳細については何人(なんびと)と雖も窺い知ることのできないものであった為、隅々迄は窺い知ることのできない天下国家に喩えを引いて、「其(そ)れ諸(こ)れを斯(ここ)に示(み)るが如(ごと)きか」と述べたものと思われます。
 

〔 子供論語  意訳 〕
ある(ひと)(てい)(さい)のお(まつ)りの由来(ゆらい)質問(しつもん)した。孔子(こうし)(さま)は「いつごろ(はじ)まったものか、(なん)目的(もくてき)()ったものか(わたし)には()かりません。元々(もともと)王様(おうさま)がお(ひと)()でなさることなので、私達(わたしたち)には儀式(ぎしき)一部(いちぶ)しか()ることが(ゆる)されませんからね」と(こた)えた。
 
〔 親御さんへ 〕
・・・・・((+_+))
 
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