八佾第三 050

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原文                  作成日 2003年(平成15年)7月から 10月
子曰、禘自既灌而往者、吾不欲觀之矣。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(てい)(すで)(かん)してより(のち)は、(われ)(これ)()ることを(ほっ)せず。
  
〔 通釈 〕
孔子云う、「帝の祭は、潅の儀式(欝鬯・うつちょうの酒を地に注いで祖先の降霊を行なう儀式)が済めば、後は私は見る気がしない」と。
   
〔 解説 〕

欝鬯の酒とは、黍(きび)酒に欝金(うこん)の搾り汁をブレンドしたカクテル。潅とは、このカクテルを地に注いで、神霊の降臨を仰ぐ儀式の事。欝金はターメリックと云って、カレー粉の原料。
 

〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(てい)(さい)のお(まつ)りで、カクテルを地面(じめん)にそそいでご(せん)()(さま)(たましい)()()せる儀式(ぎしき)(おわ)れば、(あと)()るものがない」と。
 
〔 親御さんへ 〕
この八佾第三は何度読んでもつまらない章ばかりで、全部で26章から成っておりますが、後世に残せるものはせいぜいニ〜三本といった所ではないでしょうか。与太話しでもして何とか皆さんを飽きさせないように頑張っているつもりですが、そろそろネタも尽きて来たようですので、通釈と意訳だけにして、少し飛ばしてみますかね。
 
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