八佾第三 043

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原文                 作成日 2003年(平成15年)7月から 10月
子曰、人而不仁、如何。人而不仁、如樂何。
  
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく(ひと)にして(じん)ならずんば、(れい)如何(いか)にせん(ひと)にして(じん)ならずんば、(がく)如何(いか)にせん。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「思いやりのかけらもない者が、上辺だけ礼に叶っていたとしても、そんなものが何になろう。愛情のかけらもない者が、技巧(テクニック)だけで音楽を奏でたとしても、そんなものが何になろう」と。
 
〔 解説 〕

礼は仁あっての礼・仁に根ざした所の礼ですから、仁の根っこから断ち切られた礼は、体裁をつくろうだけの「虚礼」となります。これと同様、楽も仁あっての楽・仁に根ざした所の楽でありまして、仁の根っこから断ち切られた楽は、技巧(テクニック)だけの「虚楽」であると孔子は云います。

孔子は音楽のセンスも超一流だったようで、八佾第三では他三箇所程で音楽に対する孔子なりの見解を語ってくれております。

私事で恐縮ですが、私の恩師は奥田耕天というパイプオルガニストで、日本の宗教音楽(キリスト教音楽)の草分け的大先生でありますが、大学3年の時に先生から「ニューヨークのジュリアードに紹介状を書いてやるから、田舎の両親と相談して来なさい」と云われて、その旨親父に相談しましたところ、「うちの家系には歌歌いになった者は一人もおらん!」とピシャリと一言。妙に納得した覚えがあります。

「そんな金がどこにある!」と本当は云いたかったのでしょうが、馬鹿息子では納得しないと思ったんでしょうね。そのことを先生に報告しますと、「歌歌いは一人もおらんか・・・。親父さんもはっきりしてるね」と云って笑っておられたのを思い出します。

奥田先生は2001年の暮れに91才で亡くなられましたが、学生時代「心の無い音楽など音楽ではない!いいくら加減に歌うな!」と、よく叱られたものです(いい加減ではなくて、いいくら加減が先生の口癖でした)。孔子の「人にして仁ならずんば、楽を如何にせん」と同じことを云っておられたんですね。
 

〔 一言メッセージ 〕
『心のない礼は虚礼。心のない音楽は虚楽。心のない人物は虚像』
 
〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「挨拶(あいさつ)(こころ)()めてやりなさい。楽器(がっき)(こころ)()めて()きなさい。(うた)(こころ)()めて(うた)いなさい。上手(じょうず)下手(へた)のテクニックよりも、(こころ)大切(たいせつ)なんだよ、(なに)ごともね」と。
 
〔 親御さんへ 〕

仁と礼、仁と楽の関係を図示してみると、次のようになります。

 

 

       仁と礼

 

 

最大

仁なく礼あり

仁ありて礼あり

 

 

 

 

 

 

 

虚礼

敬礼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仁もなく
礼もなし

仁あれども
礼なし

 

 

 

 

 

 

非礼

欠礼

 

 

最小

 

 

 

 

 

最小

最大

 

 

 

        仁 

 

 

 

          

       仁と楽

 

最大

仁なく楽あり

仁ありて楽あり

 

 

 

 

 

虚楽

芸術

 

 

 

 

 

 

仁もなく
楽もなし

仁あれども
楽なし

 

 

 

 

野暮

無粋

 

最小

 

 

 

 

最小

最大

             
 
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