為政第二 040

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原文                  作成日 2003年(平成15年)5月から7月

子曰、非其鬼而祭之、諂也。見義不、無勇也。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、()()(あら)ずして(これ)(まつ)るは(へつら)いなり。()()()さざるは(ゆう)()きなり。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「自分の家の先祖でもないものを祭るのは、御利益目当てのご都合主義である。正しいと知りながら実行しないのは、勇気の無い臆病者である」と。
 
〔 解説 〕

「義を見て為ざるは勇なきなり」の出典がここ。孔子の時代にも、御利益信仰のようなものがあったようです。日本人は、神との契約という概念がありませんから、縁結びの神様・学問の神様・商売の神様等々、何でも御座れでケロッとしておりますけれども、ユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒がこんなことをしたら、大変なことになります。一神教では唯一絶対の神以外の神を拝んだら、それこそ大罰(おおばち)が当たります。

旧約では、御利益信仰のことをバール信仰(バールの神を祭る)と云って、唯一絶対の神を信ずる民が万一それ以外の神を祀ったりすれば、神は情け容赦なく洪水や地震や業火を以て人を亡ぼしてしまいます。ノアの洪水やバべルの塔の破壊やソドムとゴモラ業火のように。

モーゼの十戒第一番目に「汝、我が面の前に、我の外何物も神とすべからず。
・・・偶像を彫むべからず・・・之を拝むべからず・・・我エホバ汝の神は、嫉(そね)む神なれば、我を悪む者にむかいては、父の罪を子に報いて34代に及ぼし、我を愛し我が誡(いましめ)を守る者には恩恵(めぐみ)を施して千代(ちよ)に至るなり」(出エジプト記第二十章)とありまして、旧約の神様は嫉んだり崇ったりする何とも恐ろしい神様ですから、この神との契約を破れば大変なことになるのは当たり前なんですね。

唯一絶対の神ヤハウェもエホバもアラーも同一神で呼び名が違うだけということになって
おりますが、聖書を読んでみますと、モーゼに臨んだ神(旧約の神)とイエスに臨んだ神(新約の神)は、どうも別人のようですね。旧約の神は義の神とは云え、嫉んだり崇ったりする恐ろしい神様ですし、新約の神は与え尽くす優しい愛の神様ですから。
 

〔 一言メッセージ 〕
『利の元は義、義の根は仁。従って、真の利益の根源は仁である』
 
〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「(こま)った(とき)(かみ)(だの)みでは()()がないんだよ。普段(ふだん)から(ただ)しいと(おも)ったことは勇気(ゆうき)をもって実行(じっこう)しなくちゃね。(ただ)しいと()りながら実行(じっこう)しないのは、臆病者(おくびょうもの)というんだよ」と。
 
〔 親御さんへ 〕

利の元は義、義の根は仁ですから、仁の根っこから断ち切られた義は浮遊霊のようなご都合主義の義となり、更に義から切り離された利は「浮利(ふり)」(浮いた泡のようなはかない利益)となります。

仁と断絶し、更に義を失って浮利を追ったのがバブル経済であった訳ですが、バブル(泡)は必ずはじける、浮利は必ず吹っ飛んでしまいます。歴史の経験則から「浮利は追わず」というのが真っ当な人間のすることであった筈なのに、80年代に日本人は狂ってしまったんですね。そのツケが十数年経った現在迄廻って来ている訳です。


史記の貨殖列伝に、「本富(ほんぷう)を上(かみ)と為し、末富(まっぷう)之に次ぎ、姦富(かんぷう)最も下(しも)なり(本富為上、末富次之、姦富最下)」とありますが、之を現代風に解釈すれば、

   本富・・・広く社会に恩恵を及ぼす富を創出するような事業。
   末富・・・本富に付随して、富の拡大再生産をはかるような事業。
   姦富・・・本富・末富で創出−拡大再生産された富を掠め取って
                     しまうような事業。

(それ自体、富の創出も拡大再生産もしないゼロサムのビジネス。代表的なものがデリバティブのような投機ビジネス)ここで云う姦富が浮利に相当する訳ですが、姦富がはびこると人心が荒廃し、社会は衰退して行きます。額に汗して働くなんてアホらしい!という風潮が蔓延してしまうんです。姦富がはびこり、人々がこぞって浮利を追うような社会はロクなものではありませんね。
 

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