為政第二 031

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原文                 作成日 2003年(平成15年)5月から7月
子曰、而不思則罔、思而不則殆。
 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(まな)びて(おも)わざれば(すなわ)(くら)く、(おも)うて(まな)ばざれば(すなわ)(あやう)し。
 
〔 通釈 〕
孔子云う、「学ぶだけで、じっくりと自分の頭で思索してみなければ、真に活きた学問とはならない。逆に、自分の頭で思い巡らすだけで、博く学ぶことをしなければ、危なっかしくて頼りにならない」と。
 
〔 解説 〕

「学びて思い、思いて学ぶ」というのは、学問をする際の要諦でありまして、「学ぶだけ」・「思うだけ」では、さっぱり身に付かないし・思考力が鍛えられないんですね。「学ぶだけ」ですと、パブロフの犬のように、ただ反応するだけの頭になりますし、「思うだけ」ですと、井の中の蛙のように、偏狭な頭になってしまいます。

戦後日本人は、経済がすべて!と勘違いしてしまったせいか、高い教養を身に付けるより、すぐに役立つ知識や技術、つまり、ノウハウを身に付けることに汲々として、深い洞察力や
確かな識見というものを失ってしまったのではないでしょうか。

博学多識な人や高度な技術を持った人はいくらでもおりますが、故安岡正篤先生や渡部昇一さんのように、その言説をして我々凡人の蒙(もう)を啓(ひら)かしめるような「真の教養人」という人には、滅多にお目にかかれなくなりましたね。

最近大学では、教養学部を廃止する動きがあると聞きますが、「学びて思い、思いて学ぶ」習慣のないパブロフ・エリートをなんぼ養成した所で、少しも良くならないんですよ、この国は。

大局観を持ったゼネラリストを育てなければね。戦前の旧制高校が現在の大学の教養学部に相当するのでしょうが、高い教養を身に付け・識見を磨くというのは、人として大切なことなんですね。

一流大学を出たエリートがオウム真理教に狂信したのも、「学びて思い、思いて学ぶ」教養を身に付けていなかったが故に、正邪を見抜く識見を持ち合わせていなかったからなんですね。教養・識見と学歴とは、あまり関係がないんですよ。
 

〔 一言メッセージ 〕
『真の教養とは、学びて思い・思いて学ぶ中から醸成された、確かな識見のこと』
 
〔 子供論語  意訳 〕
孔子(こうし)(さま)がおっしゃった、「君達(きみたち)は、(まな)んだら(まな)びっ(ぱな)しにしておかないで、なぜそうなるのか?その理由(りゆう)をよく(かん)えてみなさい。本当(ほんとう)学力(がくりょく)()()くからね。いいアイディアを(おも)いついたら(ひと)()がりにならず、図書館(としょかん)参考書(さんこうしょ)調(しら)べてみなさい。ずっと(むかし)にもっとすごいことを(かんが)えた(ひと)がいたことが(わか)って、大変(たいへん)参考(さんこう)になるからね」と。
 
〔 親御さんへ 〕

日本中の誰もが、子供達の学力を落して欲しいなどと望んでもいないのに、2002年の4月から「ゆとり教育」と称して、学習内容を三割も削った教育が為されております。これは、文部省の暴挙と云う他はありません。政治家は一体全体何をしているのでしょうか!力=質×量ですから、質(学習内容)を三割落し、量(授業時間)を50日間(毎週土曜休み)減らせば、力(学力)が低下するのは目に見えております。

国土も狭く、地下資源にも恵まれない我が国が、世界で最も豊かな国の一つになれたのは、国民教育のレベルの高さと勤勉さにあったこと位、誰でも承知している筈ですが、「ゆとり」なる美名に隠れて、教育レベルを落し・勤勉さを削ぐ施策を奨励するとは、文部省という所は、亡国の徒の集まりなのでしょうか。

自分の子供時代を思い出してみれば誰でも分かることですが、小学生の頃はロクな判断力も自己決定力も持っておりません。自ら判断し自ら決定するには未熟過ぎるのです。

です
から、教師が課題を与えてビシビシと鍛え上げて行かないと、伸びる子も伸びられなくなってしまうんですね。029章でも述べましたが、常にニ割増しの課題を与えてやらないと、普通の子は伸びられないのです。それなのに、三割減の課題しか与えないというのは、将来この国を背負う日本中の子供を、小さいうちから楽をさせて潰してしまおうという、邪悪な魂胆があるとしか思えませんね、文部省は!!

欧米のキリスト教国では、「躾」は家庭・「知育と体育」は学校・「徳育」は教会というように、それぞれ役割分担がはっきりしておりますが、日本では「躾」だけが家庭で「知育・体育・徳育」は小学校がその役割を担って来たんですね、明治以来。

つまり、地縁の中で最も重要な役割を担って来たのが「小学校」であった訳ですが、戦後の日本には道徳の教科書がありませんから、今の教師達には徳育(道徳教育)はできませんし、知育は質・量ともに削ってしまってダメとなれば、最早日本の公立小学校はすべて「幼年体育学校」にしてしまおう!?とでもいう魂胆なのでしょう、文部省は。

否、体育すらまともに行えないでしょう、今の小学校では。優秀な体育指導者は、皆民間のスイミングクラブやサッカークラブや少年野球クラブに居りますから。知育は「塾」で、体育は「スポーツクラブ」で、徳育は「当会ホームページ」でとなったら、学校のレーゾンデートル(存在理由)は一体どこにあるのでしょうか!?文部省のレーゾンデートルは何なのでしょうか!?

給食だけ食わせて遊ばせておけば良い!とでも思っているのでしょうか。文部大臣は国民にはっきりと云うべきです、文部科学省は本日を以て「文侮(もんぶ)(学問を侮り)可楽(かがく・楽をする可し)省」に改名します!と。 

尚、道徳の教科書としては「論語」の右に出るものはありませんが、もう一冊、新渡戸稲造の「武士道」をお薦め致します。「武士道」(欧米人に日本人の道徳のエッセンスを紹介する為に英文で書かれた)を翻訳したものとして、矢内原忠雄(岩波文庫)・奈良本辰也(三笠書房)・飯島正久(築地書館)等、優れたものがありますが、今の若い親御さん達には、飯島訳が一番分かり易いのではないかと思います。

新渡戸稲造は内村鑑三とともに、札幌農学校で「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士の薫陶を受けた敬虔なクリスチャンでしたし、飯島正久は、現代日本を代表する聖書研究家ですから、和魂キリスト者新渡戸の息吹がひしと伝わってくるような感銘を受けます。是非一度読んでみて下さい。

道徳とは、人としていかに思い・いかに語り・いかに為すべきか、つまり、人として踏み行なうべき道の価値基準(善悪の基準)と根本規範を示したものですが、こういうことは、子供の頃からきちんと教わっていないと身に付かないものなんですね。大人に成ってからでは手遅れなんです。そういう意味からも、どうかお子さんに「論語」を読んであげて下さい。「論語」は、そもそも高校の漢文の時間に教えるものではないんです。小学校の道徳の時間に教えるべきものなんですよ。
 

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