衛霊公第十五

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 【151】
(ちん)(いま)して(りょう)()つ。従者(じゅうしゃ)()みて()()つこと()し。()()(うら)(まみ)えて()わく、君子(くんし)(また)(きゅう)すること()るか。()(のたま)わく、(くん)()(もと)より(きゅう)す。(しょう)(じん)(きゅう)すれば(ここ)(みだ)る。

【通釈】
孔子一行が楚に向かう途中で陳を通りかかった際、楚に行くことを阻もうとした陳の軍隊に包囲され、数日間糧道を絶たれてしまった。お供の門人達は為す術もなく飢えと疲労で立つこともままならぬ状態となった。そこで子路が恨みがましく、「君子ほどの人物でも、困窮することがあるのでしょうかね!?」と食って掛った。孔子は、「ああ勿論ある。ただ小人と違ってジタバタしないもんだよ」とたしなめた。

【解説】
孔子が楚の昭王に招かれて楚に向かっていた際、陳(ちん)・蔡(さい)の大夫は、孔子の指導で楚が強大になることを恐れ、楚に行くことを断念させる為に取り囲んで糧道を絶った。
一行は飢えと疲労の為倒れる者が続出したが、孔子は構わず野外で授業を続けた。
子路は、飲まず食わずで授業どころじゃないと思ったのでしょう、師に食って掛った。
「君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫る」と云われて、子路も納得したのではないでしょうか。
ただ孔子も無為無策でじっとしていた訳ではありません。
子貢に策を授け、夜陰に乗じて脱出させて楚の昭王に救援を求めた。
これを聞いた昭王は、すぐさま軍を発して一行を救出し、孔子を楚に向かい入れた。
孔子63才頃の出来事です。

【152】
()(のたま)わく、()や、(なんじ)(われ)(もっ)(おお)(まな)びて(これ)()(もの)()すか。(こた)えて()わく、(しか)り、()なるか。(のたま)わく、()なり。(われ)(いつ)(もっ)(これ)(つらぬ)く。

【通釈】
孔子が子貢に向かって、「賜よ(子貢の名)、お前は私のことを、沢山学んで何でもよく知っている物知り人間と思っているか?」と尋ねた。子貢は、「はい、そう思いますが、違いますか?」と問い返した。孔子は、「違う!私の人生は一つの使命で貫かれているのだよ」と答えた。

【解説】
一つの使命とは何か?孔子は何も云っておりませんが、これはもうはっきりしている。
はっきりしているが、はっきり云えない事情がある。
古代の中国では、天帝(造物主・神)に選ばれた者が天子として国を治め、救世の事業を行うことになっていた。
孔子は天から救世の使命を授かっていることをはっきり覚っていたが、天子の身分でもない自分が明言することは憚られる。
そこで、弟子の中でも分かる奴には分かるだろう、と云う気持で「予は一以て之を貫く」と云った。
感度のいい子貢のことですから、恐らくピーンと来たのではないでしょうか、「先生は救世の使命を授かっているお方だ!」と。
孔子は同様のことを曽子にも云っておりますが、他の弟子達には語らなかったようです。

【153】
()(のたま)わく、(ゆう)(とく)()(もの)(すく)なし。

【通釈】

孔子云う、「由よ(子路の名)、徳の何たるかを真に知っている者は、本当に少ないもんだなあ」と。

【解説】
徳の原字は直+心=悳で、本性のままの素直な心の意となります。
では、本性のままの素直な心とは一体どんなことを云うのでしょうか?
孔子の孫の子思(しし)が著したとされる、「中庸」と云う難解な書物の冒頭に、「天の命ぜる、之を性と謂う」とあります。
この文章の意味は、「天帝(造物主)が、ご自身の分霊(わけみたま・分身)として創られたのが人間であり、よって、すべての人間は神の種(神性)、則ち、徳性を宿したる存在である」ということです。
これは釈迦も同じことを云っている、「一切衆生悉有仏性・いっさいしゅじょうしつうぶっしょう(生きとし生けるものは悉く仏と同じ性を持っている)」と。
仏性も神性も同じ意味です。
つまり、人間の本性=神性(仏性)=徳性を宿したる存在と云うことになります。
本来的に宿るものを磨き出すから、「徳を磨く」と云う訳ですね。
「徳を創る」とは云いません。
「徳を積む」も「徳を身につける」も「徳を高める」も、みな徳を磨くことを意味する言葉です。
ですから、徳の有る無しは、神性(仏性)が磨かれているか?磨かれていないか?の違いを云う訳ですね。

【154】
()(ちょう)(おこな)われんことを()う。()(のたま)わく、(げん)忠信(ちゅうしん)(こう)(とっ)(けい)なれば、(ばん)(ぱく)(くに)(いえど)(おこな)われん。(げん)忠信(ちゅうしん)ならず、(こう)(とっ)(けい)ならざれば、州里(しゅうり)(いえど)(おこな)われんや。()ちては(すなわ)()(まえ)(さん)するを()輿()()りては(すなわ)()(こう)()るを()るなり。()(しか)(のち)(おこな)われん。()(ちょう)(これ)(しん)(しょ)す。

【通釈】
子張が、「思うことが行なわれるようにするには、どうしたらよいでしょうか?」と問うた。孔子は、「言うことが誠実で言を違えないようにし、やることが篤実で慎み深ければ、たとえ南蛮北狄(なんばんほくてき)のような野蛮な国へ行ったとしても、必ず思った通りのことが行なわれるだろう。言うことに実がなくいい加減なものであったり、やることに情がなく浮ついたものであったなら、たとえ生まれ故郷であったとしても、何一つ
思い通りにならんだろう。家に在っても車上に在っても、この忠信・篤敬を拳拳服膺(けんけんふくよう)するならば、自然に言忠信・行篤敬が身について、自分の思うことが通るようになるだろう」と答えた。子張はすぐさま今の言葉(忠信・篤敬)を大帯の端に書き付けて、修養の一大指針とした。

【解説】
「行篤敬」を「おこないとっけい」と読んでも構いません。
押しが強く堂堂とした子張も、内心では「どうして自分の思うことが通らんのだろうか?」と悩んでいたようですね。
言うことは立派だが実がない!と周囲に思われていることを、子張なりに気にしていたのでしょうが、どうしたら自らの言行を律することが出来るようになるのか?これが今一つ分からなかった。
そこで孔子に尋ねたら、「言忠信・行篤敬」と云われ、これだ!と思ってすぐさま帯の端に書き留めたのでしょう。
しかし、一度身についた性格はそう簡単に変えられるものではない。
後に子張は曽子に、「堂々たるかな張や。与(とも)に並びて仁を為し難し」と評されています。

【155】
()(のたま)わく、(とも)()うべくして(これ)()わざれば、(ひと)(うしな)う。(とも)()うべからずして(これ)()えば、(げん)(うしな)う。知者(ちしゃ)(ひと)(うしな)わず、(また)(げん)(うしな)わず。

【通釈】
孔子云う、「云うべき相手に真情を打ち明けなければ、まともな人に逃げられてしまう。云うべきでない人にうっかり真情を打ち明けたりすれば、失言問題を引き起こしてしまう。真の知者はここを充分弁えているから、人を失うことも言を失うこともない」と。

【解説】
「失言」なる成語の出典がここ。
言うべき時・言うべき所・言うべき人に、言うべきことを云わないと、とんでもない誤解を招いたり、非難を受けたりする。
人間関係の難しい所はこれですね。
これは本当に気をつけなければなりません。

【156】
()(のたま)わく、志士(しし)仁人(じんじん)は、(せい)(もと)めて(もっ)(じん)(がい)すること()く、()(ころ)して(もっ)(じん)()すこと()り。

【通釈】
孔子云う、「志士(志の高い人)や仁人(仁徳を体現した人)は、命が惜しいからと云って、仁の道を曲げるようなことはしない。寧ろ、我が身を犠牲にしてでも、仁の道を成し遂げようとする」と。


【解説】

私が初めて論語を読んでこの章に出会った時、これは500年後のイエスキリストの生涯を孔子が予言しているのではないか!?と思ったものです。イエスは、身を殺して以て仁の道を成した人ですから。
イエスキリストのみならず、実はこれが武士道の原点になっていることをご存知でしょうか?
武士の本懐は、「身を殺して以て仁を成す」にある訳ですから。
日本流に言うと、「武士道とは、死ぬことと見つけたり」(葉隠)ということですね。
志士とは、世の為・人の為に我が身を犠牲にしてでも使命を全うしようとする志の高い人を云います。
坂本竜馬なんかは志士の代表ですね。
だから。幕末・維新の英雄豪傑を「志士」と云うでしょう?皆命懸けでやったんです。
新渡戸稲造の「武士道」が欧米キリスト教国で何故あれだけ関心を持って読まれたのか?その理由がこれで分かったでしょう、欧米人は、「武士道」の中にイエスの姿を見たんですよ。
欧米人は「サムライ」が大好きです。
使命の為に命を捧げる「不惜身命・ふしゃくしんみょう」の人は、どこの国でも尊敬されます。

【157】
()(こう)(じん)()さんことを()う。()(のたま)わく、(こう)()(こと)()くせんと(ほっ)すれば、(かなら)()ずその(うつわ)(するど)くす。()(くに)()りては、()大夫(だいふ)(けん)なる(もの)(つか)え、()()(じん)なる(もの)(とも)とす。

【通釈】

子貢が仁を実践する心得を問うた。孔子は、「大工がよい仕事をしようと思ったら、必ず先ずその道具を磨いて鋭利にするように、仁の実践は己を磨くことから始めなさい。それには、国にあっては賢者と云われる大夫に仕えてこれを師とし、情に厚い士を選んでこれを友としなさい」と答えた。

【解説】
本当に孔子は比喩の名人です、匠が道具を磨くように己を磨けってことですね。
己を磨くには、必ず師とする人と友とする人を慎重に選びなさい!と云う。
「弘法筆を選ばず」と云いますが、それは既に達人の域にある人のことを云うのであって、我々発展途上人には当てはまりません。
師を選ぶには蒙を啓かせてくれる賢者、友を選ぶには情に厚い仁者を選びなさい!と云うことですね。

【158】
()(のたま)わく、(ひと)にして(とお)(おもんぱかり)()ければ、(かなら)(ちか)(うれい)()り。

【通釈】
孔子云う、「目先の事にばかり囚われて、先の先まで考慮しなければ、必ず身近な所から禍が起こって来るものだ」と。

【解説】
こういうことをサラリと言い切ってしまうんですから、孔子は本当に人間通です。
2500年経った現代でも、遠き慮が無くて苦労している人が一体どれ程いるでしょうか。
本章の孔子の言葉は本当に耳が痛い。
将にこのモデルのようなものでしたからねえ、私の人生は。
私以外にも、耳の痛い人、結構いるんじゃないでしょうか?

【159】
()(のたま)わく、()(みずか)(あつ)くして、(うす)(ひと)()むれば、(すなわ)(うらみ)(とお)ざかる。

【通釈】
孔子云う、「自分には厳しく、人には寛大に臨むなら、誰からも怨まれるようなことはないだろう」と。

【解説】
普通はこの逆、「自分に甘く人に厳しく・身内に甘く他人に厳しく」なってしまうもので、結局「何だあいつは!」と顰蹙(ひんしゅく)を買うことになる。
2500年前も現代も、人間の精神構造はそれ程変っていないってことですかねえ?
論語を読んでみると、つくづく「ちっとも変ってねえな!」と思うようなことがいっぱいあります。

【160】
子曰(しのたま)わく、(これ)如何(いかん)(これ)如何(いかん)()わざる(もの)は、(われ)(これ)如何(いかん)ともする()きのみ。

【通釈】
孔子云う、「何故だろう?どうしてだろう?と、常に問題意識を持たぬ者は、私としてはどうしようもない」と。

【解説】
問題意識を持たぬ者はどうしようもない!と孔子は云います。
ただ、問題意識にも正しい問題意識と間違った問題意識がありますから、問題意識なら何でも良いということではありません。
間違った問題意識とは、無知や偏見から来る誤った前提から発する問題意識のことでありまして、これではどこまで行っても正しい答えは得られません。
インプットを間違えば正しいアウトプットが得られないのと同じです。
スルメを解剖してイカを研究しようとするようなものですね。
他人事ではなく、これは私達も時々やってしまいますから、くれぐれも用心しなければなりません。
先入観念や固定観念を無自覚無前提に正しいと信じ、更にこれを前提として事の是非を断じてしまいますからね、我々凡人は。
先入観念や固定観念の間違いを指摘されて、「ああそうか!」と気付くのなら救いようもあるけれど、大半が耳を塞いでしまうか価値観の違いで逃げてしまう。
こうなるともう手の施しようがありません、孔子の云う「吾之を如何ともするなきのみ」ですね。
他人から刷り込まれた観念を、自分自身の価値観と思い込んで生きているなんて、マインドコントロールされているのと同じじゃないですか。
もっと自分の魂に対して素直にならなくちゃいけないね。
他人に洗脳された価値観などは、自由意志とは云わないんですよ。
インプリンティングによる不自由意志と云うんですね。

【161】
()(のたま)わく、群居(ぐんきょ)して終日(しゅうじつ)(げん)()(およ)ばず、(この)んで小慧(しょうけい)(おこ)う。(かた)いかな。

【通釈】

孔子云う、「大勢の者が一日中寄り集まって議論しても、話しが一向に本質的な問題に及ばず枝葉末節に終始して、小賢しい知恵を振り回しておる。嘆かわしいのう!」と。

【解説】
これ、2500年前の話しですよ!今の国会のことを云っているんではないんですよ!!
人間は小慧(小賢しさ)だけ発達させてきたんでしょうかねえ‥‥、何千年も?

【162】
()(のたま)わく、君子(くんし)(のう)()きを(うれ)う。(ひと)(おのれ)()らざるを(うれ)えず。

【通釈】

孔子云う、「君子たるものは、自分にそれを担えるだけの能力があるかどうかを心配するもので、世間の評判など心配するものではない」と。

【解説】
晩年の孔子学園には、中国全土から逸材が入門して来たようで、「我こそは!」と自惚れている者も多かったようです。
自惚れ者は、早く世に知られたい!世間に認めてもらいたい! という傾向が人一倍強いですから、じっくりと己を磨くことより、世間受けを狙ったパフォーマンスに精を出す。
孔子は、中身が伴わないのに評判だけが独り歩きすることを嫌った人でしたから、若い弟子達のパフォーマンスが気になっていたのではないでしょうか。
変りませんねえ、昔も今も。
パフォーマンスを取ったら、何も残らないような人物にだけはなりたくないですね。


【163】
()(のたま)わく、君子(くんし)()()えて()(しょう)せられざるを(にく)む。

【通釈】

孔子云う、「君子たる者は、生きているうちはともかく、死んでから少しも名が立たないことを嫌うものだ」と。

【解説】
「君子は世を没えて」を「世を没するまで」と読み下せば、「君子は死ぬ迄に名が立たないことを嫌うものだ」となります。
こう釈するのが一般的ですが、「人の己を知らざるを病(うれ)えず」と、常々弟子達に語っている孔子が、「生きているうちに名声を博さなければ意味が無いぞ!」などとは云わんでしょう。
我々凡人ならばいざ知らず、君子ともなれば、「果たすべき使命を果たしたら、後は後世の評価に委ねる」とするのが、出来た人物の生き様ではないでしょうか。

164】
()(のたま)わく、君子(くんし)(これ)(おのれ)(もと)む。小人(しょうじん)(これ)(ひと)(もと)む。

【通釈】

孔子云う、「君子たる者は、何ごとも自分の責任として受け止めるが、下らない人物は、何ごとも他人のせいにする」と。

【解説】
素直に非を認めて、「すみません!」と一言謝れば済むものを、ああでもない、こうでもないと云って却って話しをこじらせてしまう。
原因・結果の法則は、誰も晦ますことが出来ません。
こんな筈ではなかったのに!と思っても、必ずどこかでその結果を招来するような種を蒔いているものです。思い出せないだけです。
今世とは限らず、過去世で蒔いた種も有りますから、余計思い出せない。
自分が蒔いた種は自分で刈り取らなければならないようになっているんですね、世の中は。

【165】
()(のたま)わく、君子(くんし)(おごそか)にして(あらそ)わず、(ぐん)して(とう)せず。

【通釈】

孔子云う、「君子たる者は、何ごとも厳格であるが、意見が合わないからと云って敵対したりはしない。又、意見が合うからと云って安易に手を組んだりしない」と。

【解説】
ここがどうも我々凡人の悪い癖で、意見が合う人イコール善い人、合わない人イコール悪い人と決め付けてしまう。
目指す方向と目的が同じならば、様々な意見を持った人がいた方がその集団は強くなる。
完全無欠の人などおりませんから、様々な意見を統合し止揚して、中庸の道・無限進化の道を選び取って行く。
「群して党する」ものは、そのうちマアマア・ナアナアになって、分裂崩壊してしまいます。

【166】
()(のたま)わく、君子(くんし)(げん)(もっ)(ひと)()げず、(ひと)(もっ)(げん)(はい)せず。

【通釈】

孔子云う、「君子たる者は、言うことが良いというだけで、その人の人柄まで全面肯定したりはしない。又、人柄が良くないからと云って、その人の発言まで全面否定したりはしない」と。

【解説】
これも耳が痛いねえ!
好きな人の発言なら、「鰯の頭も信心から」と全面肯定してしまうか、嫌いな人の発言となると、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と全面否定してしまうかのどちらかに偏ってしまいがちです。
ニュートラルなスタンスでいないと、道を誤ってしまいますね。

【167】
()(こう)()うて()わく、一言(いちげん)にして(もっ)()()うるまで(これ)(おこな)うべき(もの)()りや。()(のたま)わく、()(じょ)か。(おのれ)(ほっ)せざる(ところ)(ひと)(ほどこ)すこと(なか)れ。

【通釈】

子貢が、「人として一生涯貫き通すべき一語があれば教えてください」と問うた。孔子は、「それは恕、つまり、相手の身になって思い・語り・行うことだ!」と答えたが、子貢がよく理解できないような様子だったので、言葉を継いで「自分が嫌なことは人に仕向けるな!」と云った。


【解説】

論語全篇中、孔子が「恕」なる言葉を語っているのはここ一ヶ所しか有りません。
里仁第四の36番に「忠恕」なる言葉が出て来ますが、これは曽子の言葉です。
つまり、「仁」は繰り返し弟子達に語っていたけれど、「恕」は殆ど語らなかったようです。
孔子は仁の究極の姿を「恕」と考えていたのではないでしょうか。
孔子が「其れ恕か」と云った時、孔門随一の切れ者・子貢でさえ恕の概念・ロゴスをどう捉えて良いかよく分からなかった。
そこで、これなら分かるだろうということで、「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」と補足説明した。
恕本来の概念ではないけれど、「恕とは喩えてみればこういうことだ」と云うことです。
ですから、恕イコール「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」ではないんですね。比喩或は方便なんです。
ここを勘違いしている人が結構多くて、「孔子の教えは恕(又は忠恕)の一語に尽きますね!」などと断言する人に時々出くわしますが、論語にたった一回しか出て来ない「孔子の恕」とは一体何なのか?あの子貢でさえピンと来なかった恕の意味とは何なのか?通釈では一応「相手の身になって思い・語り・行うこと」と釈しましたが、本当の所自信がありません。
恕=如+心の会意文字で、仏教で「如心(にょしん)」と云えば、衆生の心が手に取るように分かる如来の境地のことを云います。
孔子も、案外釈迦と同じことを考えていたのかも知れませんね。

【168】
()(のたま)わく、巧言(こうげん)(とく)(みだ)る。(しょう)(しの)ばざれば、(すなわ)大謀(たいぼう)(みだ)る。

【通釈】
孔子云う、「口先だけの奇麗事は徳性を損なう元だ!小事を耐え忍ばなければ、大事など為せる筈がない!」と。

【解説】
孔子は言葉を非常に大切にする人でした。
言葉には一種の霊力と云うか、造化力が宿ると考えていたようで、論語には「言・げん」に関することが20本近く収録されています。
巧言とは言葉を飾って巧みに云うこと、口先だけの奇麗事のことですが、孔子は特にこれを嫌った。
品格・徳性を損なう元だと。何故でしょうか?
心にもないことを云うという行為は、自分自身に嘘をついているからなんですね。
自分自身に嘘をつくこと程、徳性を損ねるものはありません。


【169】
()(のたま)わく、(しゅう)(これ)(にく)むも(かなら)(さっ)し、衆之(しゅうこれ)(この)むも(かなら)(さっ)す。

【通釈】
孔子云う、「大衆が皆嫌うからといって、そのまま鵜呑みにせず、必ず自分の目で確かめてから判断しなさい。大衆が皆好むからといって、そのまま鵜呑みにせず、必ず自分の目で確かめてから判断するようにしなさい」と。

【解説】
「噂や伝聞を鵜呑みにせず、必ず事実に基づいて判断しろ!」と云うことですが、もう少し深読みしてみると、「大衆が悪むにはそれなりの理由がある筈だから、必ずその真相を突き止めろ!大衆が好むにもそれなりの理由がある筈だから、必ずその真相を突き止めろ!上に立つ者は成り行き任せでボヤッとしているな!!」という意味が含まれているような気がします。

【170】
()(のたま)わく、(あやま)ちて(あらた)めざる、(これ)(あやま)ちと()う。

【通釈】

孔子云う、「人は誰でも過ちを犯すものだ。だが、過ちを犯しても本人が過ちと気付かなければ、際限なく同じ過ちを繰り返して改めようがない。これが本当の過ちと云うものだ」と。

【解説】
私達は、知って犯す過ちよりも、知らずに犯す過ちの方が断然に多い生きものです。
刑法では知らずに犯す過ちを「過失」と云って、知って犯す「故意」よりも罪は軽いとされておりますが、人間真理から見た場合それは逆だ!と孔子は云う。
つまり、本人がそれを過ちと気付かなければ反省してみようがなく、改過することのないまま、死ぬ迄同じ過ちを繰り返す。
死ぬ迄反省・改過することが出来なければ、あの世に持ち帰ることになりカルマ(業)となる。
ですから釈迦は「知らずに犯したる罪は、知りて犯したる罪に百倍す。無明(真理に無知な事)程、人として罪深いことはないのだ」と弟子に説いた訳です。
尚、本章は「自分の過ちに気付きながら、それを改めようとしないのが本当のあやまちだ」と解するのが一般的ですが、それでもいいけれど、その程度のことなら誰でも知っている所で、敢て孔子が云うほどのことでもないでしょう。
私達は、知って犯す過ちよりも、知らずに犯す過ち、つまり、過ちと気付かずにやってしまうことの方が断然に多いのですから。
気付かないこと自体が本当の過ちなんです。
気付きさえすれば、学而第一の5番にあるように、「過てば則ち改むるに憚ること勿れ」となる訳です。

【171】
()(のたま)わく、(われ)(かつ)終日(しゅうじつ)(くら)わず、終夜(しゅうや)()ねず、(もっ)(おも)う。(えき)()し。(まな)ぶに()かざるなり。

【通釈】

孔子云う、「私は若い頃、一日中何も食べず、一晩中一睡もせず思索に耽ったことがあるが、大して得るところがなかった。やはり、昔の聖賢の残した古典に学ぶには及ばないな」と。

【解説】
近年「量より質」ということがよく云われますが、読書や学問に関しては当てはまらないのではないでしょうか。
量をこなさないと質は高まらないようですね。
読書なんかは「量が質を作る」典型的なものと云っていいでしょう。
読書に限らず、音楽でも絵画でもスポーツでも仕事でも、経験の量が質を作って行く世界は至る所にある、否、殆どがこうだと云って良いのではないでしょうか。

【172】
()(のたま)わく、(たみ)(じん)()けるや、水火(すいか)よりも(はなは)だし。水火(すいか)吾踏(われふ)みて()する(もの)()る。(いまだ)(じん)()みて()する(もの)()ざるなり。

【通釈】

孔子云う、「人間にとって仁は水や火よりも大切なものである。確かに水や火は生活に欠かせないものであるが、反面、溺死したり焼死したりと危険な面も併せ持っている。しかし、仁はいい面ばかりで、これを踏み行って死んだなどという人は、未だかつていたためしがない」と。

【解説】
何ごとも度を越してやり過ぎると、必ずどこかで弊害が生ずるものですが、仁に限っては弊害どころか、やればやる程良い結果をもたらすと孔子は云う。
義に過ぎれば、正義の為には手段を選ばずとなって暴虐無惨を極めることとなる。
礼に過ぎれば、実のこもらない上辺だけの虚礼となる。
知に過ぎれば、自分さえ良ければと、冷酷非情な狡猾知となる。
信に過ぎれば、我が神我が神と異端邪教のレッテルを貼り合って、宗教戦争を起こす。
仁に過ぎれば、仁に過ぎれば‥‥、分かち合い、助け合い、許し合って、地上天国が出現する。
仁をやり過ぎても良くなるだけで、弊害などどこにも生じません。
足りないから、奪い合い、いがみ合い、殺し合いが始まるんです。
仁あっての義・仁あっての礼・仁あっての知・仁あっての信、徳はすべて仁がベース(土台)。
仁の出し惜しみをやってはいけない!

【173】
()(のたま)わく、(おし)()りて(るい)()し。

【通釈】
孔子云う、「人は生まれてからの教育によってどうにでもなるものであって、生まれつき貴賎の差があるものではない」と。

【解説】
「子日」以下の孔子の言葉が、原文で「有教無類」とたった四文字で語られているのは、本章と為政第二の16番「君子不器」くらいのものではないでしょうか。たった四文字だけれども、二本とも大変重要なことを云っている。
特に本章などは、貴賎の身分制度が厳格にしかれていた当時としては、革命的なことを述べているのではないでしょうか?「血筋によって貴賎が決まるものではない!」と云っているのですから。これが孔子の人間観だったのでしょう。福沢諭吉は本章を、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と解しました。

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