八佾第三

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【022】
()(のたま)わく、(ひと)にして(じん)ならずんば、(れい)如何(いか)にせん。(ひと)にして(じん)ならずんば、(がく)如何(いか)にせん。

【通釈】
孔子云う、「思いやりのかけらもない者が、上辺だけ礼にかなっていたとしても、そんなものが何になろう。人情のかけらもない者が、技巧だけで音楽を奏でたとしても、そんなものが何になろう」と。

【解説】
礼とは、仁の心を姿形に表したもの、つまり、仁に根ざしたものですから、仁の根っこから断ち切られた礼は、体裁をつくろうだけの「虚礼」となります。
これと同様、楽も仁あっての楽、仁に根ざしたところの楽でありまして、仁の根っこから断ち切られた楽は、技巧だけの「虚楽」であると孔子は云います。
これは何となく私達にも分かりますね、そつがないけれども実のない礼、驚嘆するようなテクニックだけれども、ただそれだけで、繰り返し聴いてみようと思わない音楽は。
どうしてなんでしょうか?
同じ言葉・同じ動作・同じ楽譜・同じ楽器なのに、真心と言うか、温もりと言うか、まるで違うものに感じ取ってしまう。
視覚や聴覚以上に鋭いセンサー、瞬時に何かを感じ取ってしまうようなものを元々一人一人が持っているんでしょうね。
それが何なのかよく分かりませんが、肉体のある部分ではなくて、魂そのものに感知機能があるのでしょう。
普通は、「何となく分かる」ことを直感と云いますが、直感は大事にした方がいいですね。
男女の惚れ合いは殆どがこれですから。
婚活だ!合コンだ!などと騒いでいるのは、直感を軽視し過ぎているからじゃないでしょうかねえ?
企画やビジネスで大成功をおさめた!などと云うのも、情報収集力や分析力も多少あるけれど、最後は「これだ、いける!」と云う直感力です。
画期的な発明や発見なども、殆どが直感ですね。
現代人は、論理的に煮詰めて行ったものに価値があると思っているようですが、それは錯覚です。
「論理的には正しいが、結果は失敗でした!」、「手術は成功しましたが、患者は死にました!」というマンガのようなことが起きる。
直感とは、理屈や説明を経ないで、瞬時に真相を感じ取ることです。
これを軽んじてはいけませんね。

【023】
(りん)(ぽう)(れい)(もと)()う。()(のたま)わく、(だい)なるかな(とい)や。(れい)()(おご)らんよりは(むし)(けん)せよ。(そう)()(そなわ)らんよりは(むし)(いた)めよ。

【通釈】
門人の林放が礼の本質を問うた。孔子は、「これはいい質問だね。礼式は華美にするよりは、寧ろ慎ましくやるが良かろう。喪礼の場合も、そつなく体裁を整えるよりも、寧ろ心から哀悼の誠を捧げるようにしなさい」と答えた。

【解説】
つまり孔子は、礼式は派手にせず質素にやりなさい!形式よりも誠を尽くしなさい!と云っている訳ですが、孔子の死後、礼は益々大袈裟で華美で形式主義に流れてゆきます。
それを見て墨子(孔子が亡くなる年に生まれた)は、「厚葬を計るに、多く賦財を埋むるものなり。久喪(服喪)を計るに、久しく事に従うを禁ずるものなり。これを以て富を求むるは、これ譬えば耕を禁じて穫を求むるが如し」と、厳しく儒者を批判しております。
初めは何らかの意味があったのでしょうが、時代を経るとともにその意味が忘れられ、形だけが残っているものは結構あります。
仏教関係に結構ありますね。
死人に付ける「三角頭布(ずふ)」、死に装束の一つで、死人の額に付ける三角形のお化けのトレードマークのようなもの、あれには一体どんな意味があるのでしょうかね?
「線香」のルーツは、釈迦が山中で瞑想修行する際、虫除けに薬草を焚いたのが始まり、それでも虫が寄って来るので、八ツ手か何かの葉っぱで虫を追い払う為に振り回したのが「払子(ほっす)」として残っています。
今で云えば、当時のハエタタキが払子という法具に変ったようなものですね。
面白いねこれは、坊さんが帯にさしているあのフサフサしたのは、元はハエタタキだったなんて‥‥。

【024】
(まつ)ること(いま)すが(ごと)くし(かみ)(まつ)ること(かみ)(いま)すが(ごと)くす。()(のたま)わく、(われ)(まつり)(あずか)らざれば、(まつ)らざるが(ごと)し。

【通釈】
孔子が先祖の祭りを執り行う際は、先祖の魂がそこに臨在するかのように畏敬の念を捧げた。又、神様を祭る場合は、神々がそこに降臨されているかのように敬虔な態度で臨んだ。そして、「祭りを執り行うのに、こうしないと祭った気がしないのだ」と云った。

【解説】
前にも述べましたが、孔子の母・顔徴在(がんちょうざい)は巫女で霊能者でしたから、その血を引く孔子自身、霊に感応し易い素質が合ったのかも知れません。
孔子は合理主義者で、神や霊魂の存在を認めていなかった!と云う人に時々出くわしますが、何故ですか?と聞くと、決まって引き合いに出されるのが、雍也第六の「鬼神を敬してこれを遠ざく」や、述而第七の「怪力乱神を語らず」や、先進第十一の「未だ人に事うること能わず、いずくんぞ鬼に事えん」というものです。
そういう人には、この章を見せて、「ほら、孔子は神や霊魂の臨在をちゃんと認めていますよ!」と云うと、一様に納得されるようです。
神や霊魂の存在を否定する人が、本章のようなことをしたり云ったりする筈がありませんからね。

【025】
王孫(おうそん)()()うて()わく()(おう)()びんよりは、(むし)(そう)()びよとは、(なん)()いぞや。()(のたま)わく、(しか)らず。(つみ)(てん)()れば、(いの)(ところ)()きなり。

【通釈】
衛の大夫王孫賈が、「奥の神様に媚びるより、竈(かまど)の神様に媚びよと云う諺がありますが、どういう意味ですか?」と問うた(君主に媚びるよりは、実権のある陪臣に媚びよという謎掛け)。これに対して孔子は、「その諺は間違っている。どの神様に対しても媚びる必要はない。天の神様はすべてお見通しで、道に外れたことをすれば天罰を受ける。天に対して犯した罪は、どの神様に祷った所で無駄だ」と答えた。

【解説】
「奥に媚びんよりは寧ろ竈に媚びよ」を日本の俗諺で云うとすれば、「長い物には巻かれよ」ってところでしょうか。
似たような言葉に、「寄らば大樹の陰」というものもありますが、ちょっとニュアンスが違うようですね。
どちらも打算的であることに違いはありませんが、「長い物に巻かれよ」の場合、主体は常に相手方にあって、これに従属するのみですから、云ってみれば「盲目的打算」です。
一方、「寄らば大樹の陰」は、どれを大樹に見立てるかの主体は当方にありますから、「目明きの打算」と云った所でしょうか?勿論見立て違いはありますが。「寄らば大樹の陰」で見立てを誤らず、後に大成したと云う例はいくらでもありますが、「長いものに巻かれよ」は、その時は良いかも知れないが、後に大成したなどと云う話しは聞いたことがありません。
「盲目的・従属的打算」で行くか、「開明的・主体的打算」で行くかは、あくまでも本人次第と言うことですね。

【026】
()封人(ほうじん)(まみ)えんことを()う。()わく、君子(くんし)(ここ)(いた)るや、(われ)(いま)(かっ)(まみ)えること()ずんばあらざるなり。従者(じゅうしゃ)(これ)(まみ)えしむ。()でて()わく、二三子(にさんし)(なん)(さまよ)うことを(うれ)えんや。天下(てんか)(みち)()きや(ひさ)し。(てん)(まさ)夫子(ふうし)(もっ)木鐸(ぼくたく)()さんとす。

【通釈】
孔子一行が衛の国境近い儀という村に立ち寄った際、関所の役人が孔子に面会を求めて来て、「立派なお方がお越しの節は、いつもお目通り願っております」と云ったので、お供の門人達は孔子に面会させてやった。やがて退出して来ると、 「お前さん達!先生が位を失って本国を去られたことなど、少しも嘆く必要なんかありませんよ。天下に道義が失われて久しいので、天が先生を諸国に遣わせて木鐸の使命をお与えになったのです!」と云った。

【解説】
木鐸とは、天子のオフレを民に告げ知らせる時に、手で振りながら鳴らした鈴で、周りは鉄製・舌が木製の為、やわらかい音がしたと云う。
世の人々を覚醒させ教え導く人・世人を警醒(けいせい)する人を「社会の木鐸」と云いますが、その出典がここ。
それにしても、木鐸をこういう意味に引用してくれた関守は大した人物です。残念ながら名前は伝わっておりませんが、相当の人物でしょう。

【027】
()(のたま)わく、(かみ)()りて(かん)ならず、(れい)()して(けい)せず、()(のぞ)みて(かな)しまずんば、(われ)(なに)(もっ)てか(これ)()んや。

【通釈】
孔子云う、「人の上に立って寛大さがなく、礼を行うのに敬意を欠き、葬儀に参列して哀れみの情も持てないようでは、どうしようもないな!」と。

【解説】
結語の「‥‥吾何を以てか之を観んや」は、直訳すれば、「何のとりえも見出すことが出来ないじゃないか!」となるのでしょうが、敢て「どうしようもないな!」と訳しました。
寛容さを欠き、敬意を欠き、哀れみの情を欠いていたら、上位に居る人でなくても、どうしようもありませんからね。
惻隠の情のない人は、孔子でなくとも、どうしようもありません。
「孟子」の公孫丑上(こうそんちゅう・じょう)に、「惻隠(そくいん)の心無きは、人に非ざるなり」とありますが、これは真実だと言うことが脳神経科学によって証明されたことは、皆さんもご存知かと思います。
人間の脳神経の中に、「ミラーニューロン」というものがあって、他人の哀しみを共有する共感本能のようなものが人間には生まれつきあるそうです。
その働きをするのがミラーニューロン。
これは人間以外では哺乳類にもあるそうですが、爬虫類にはないとのこと。
ですから、惻隠の情のない者、人を哀れむ気持のない者は、人間の皮を被ったヘビかトカゲの類ってことになりますね。
勿論孔子の時代にはミラーニューロンなど発見されていませんでしたが、「どうしようもないな!」と云った訳が分かるような気がしますね、人間の皮を被ったヘビかトカゲではね。

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