学而第一

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【001】
()(のたま)わく(まな)びて(とき)(これ)(なら)う、(また)(よろこ)ばしからずや。(とも)遠方(えんぽう)より(きた)()り、(また)(たの)しからずや。(ひと)()らずして(うら)みず、(また)(くん)()ならずや。

【通釈】
孔子云う、「学んだことを繰り返し復習(練習)していると、いつの間にか身について来る。これはうれしいね。旧友がはるばる訪ねて来て、昔話に花が咲く。これは楽しいね。人が自分のことを分かってくれないからといって腹を立てたりしない。これが出来るようになったら君達もやっと一人前だ」と。

【解説】
「朋遠方より来たる有り」を「朋有り遠方より来たる」と読んでも良い。
「人知らずして慍(うら)みず」を「人知らずして慍(いきどお)らず」又は「慍(いか)らず」と読んでも良い。
勉強でもスポーツでも音楽・美術でも様々な習い事でも、一度教わっただけですぐ上手くやれるようになる人などおりません。
繰り返し何度も何度も復習(練習)して、やっと半人前になり、一人前になる。中にはその道の一流になって行く人もいる。
「気がついたら、いつの間にか上手くこなせるようになっていた!」というのは嬉しいものです。
旧友がはるばる訪ねて来て、お互い幼かった頃、若かった頃の思い出話になると、肩書きや地位・名声などお構いなしにその当時に一気にタイムスリップして、同じ目線で昔話に花が咲く。
同じ経験を共有するというのは、その時は特別なことは感じなくとも、後になってみると懐かしく楽しいものです。良いことも悪いことも。
理解してもらいたい人に分かってもらえないというのは、腹が立つ、と云うより悲しくなる。
仏教用語に「如心・にょしん」(人々の気持が手に取るように分かる)と云う言葉がありますが、こういう人は、釈迦か孔子かイエス位のもので、我々凡人には難しい。
そこで「忖度・そんたく」という言葉が生きて来る。
忖度とは、相手の心を推し測ることですが、分かりやすく云えば、「相手の身になって考えろ!」と云うことです。
そうすると大概の人はハッとする、自分のことしか考えていなかった自分がそこに居ることを。
自分のことを分かって欲しい!認めて欲しい!どうして分かってくれないんだろう!?と腹を立てていた割には、人様のことや世間のことをちっとも分かろうとしなかった、独り善がりの自分がそこに居ることを。
そこに自ら気付いた時は、とても恥ずかしく、情けない思いがするものですね。


【002】
()(のたま)わく(こう)(げん)(れい)(しょく)(すく)なし(じん)

【通釈】
孔子云う、「言葉巧みで愛想の良過ぎる者は、得てして実(真心)がないものだ」と。

【解説】
仁について説いている章は、論語に58箇所くらいあります。
仁とは分かりやすく云えば「思いやり」つまり、人を思いやる愛のこと、と考えてもらって良いかと思いますが、論語は孔子と弟子達・要人達との間で交わされた会話を記録したもので、仁について・義について・礼について云々と云うように、テーマ別に要点整理されていない、所謂(いわゆる)雑簒(ざっさん)の読み物であります。
強いてメインテーマを挙げろ!と云われれば、そうですねえ‥「人間存在の原点は仁の心・利他の愛にある!」と捉えて良いのではないかと思います。
尚、本章では仁を実・真心と解しました。
「おためごかし」は仁ではありませんから。


【003】
(そう)()()わく、(われ)()()()(さん)(せい)す。(ひと)(ため)(はか)りて(ちゅう)ならざるか、朋友(ほうゆう)(まじわ)りて(しん)ならざるか、(なら)わざるを(つた)うるか。

【通釈】
曽子云う、「私は毎日何度も自分の身(しん・行い)・口(く・言葉)・意(い・思い)について反省する。喩えば、人の為にと思いながらオタメゴカシではなかっただろうか?(意)。交友関係で信頼を損ねるようなことをしなかっただろうか?(身)。よく知りもしないくせに知ったかぶりしていい加減なことを伝えなかっただろうか?(口)」と。

【解説】
曽子とは弟子の曽参(そうしん)のことで、孔子より46才年少。
子(し)とは先生の意で、「曽子曰く‥‥」と云えば「曽先生が云った」となりますから、この章は恐らく曽子の弟子筋が残したものでしょう。
史記には、孔子の息子の鯉(り・伯魚)が早死にした為、鯉の子つまり孔子の孫の伋(きゅう・子思)を預かって訓育したとありますから、幼少の子思を預かって親代わりに養育したように錯覚しがちですが、子思は曽子と同年代か四〜五才下だったのではないかと思います。
息子の鯉は孔子20才の時の子ですから、子思が鯉25才の時の子だとすれば孔子と45才違い、鯉30才の時の子だとすれば孔子と50才違いになる。
「孝経」を著す程の学徳豊かな弟子の曽子に、「孫のことを宜しく頼むぞ!」位の所だったのではないかと思います。
曽子の指導よろしく、子思は後に「中庸」という書物を著しました。


【004】
()(のたま)わく弟子(ていし)()りては(すなわ)(こう)()でては(すなわ)(てい)(つつし)みて(しん)(ひろ)(しゅう)(あい)して(じん)(した)しみ、(おこな)いて()(りょく)()れば、(すなわ)(もっ)(ぶん)(まな)べ。

【通釈】
孔子云う、「諸君!家では親孝行をしなさい。社会に出たら目上の人を立てなさい身を謹んで言行一致するようにしなさい。そして分け隔てなく人々を愛して、仁徳の立派な人と親しく付き合いなさい。これらを実行してまだ余力があったら、古典を学んで豊かな教養を身につけなさい!」と。

【解説】
孔子は、何が何でも勉強しろ!教養を身につけろ!とは云っておりません。むしろ、頭でっかちは嫌っておりました。
学問教養とは関係なく、先ず人として心掛けておかねばならない基本的なことがある。

  一つは、親を大切にする。
  一つは、目上の人を敬う。
  一つは、分け隔てなく人々を愛して、愛情深い人をお手本とする。

ここを抑えた上で豊かな教養を身につけろ!と云っている訳です。
そうでないのは、単なる「頭でっかち」に過ぎない、と云うことですね。
孔子の時代にもいたんですね、屁理屈を捏ね回して実行の伴わない輩が。



【005】
()(のたま)わく、君子(くんし)(おも)からざれば(すなわ)()あらず。(まな)べば(すなわ)()ならず。忠信(ちゅうしん)(しゅ)とし、(おのれ)()かざる(もの)(とも)とすること()かれ。(あやま)てば(すなわ)(あらた)むるに(はばか)ること()かれ。

【通釈】
孔子云う、「上に立つ者は、どっしり構えていないと威厳が感じられないぞ。学問をしてものごとの道理が分かれば意固地にならなくて済む。友との付き合いは、誠実かつ正直であることを主眼とし、それが分からぬ者とは友達付き合いしない方が良いだろう。誰にでも過ちはあるが、もし過ちがあったら、見栄や面子にこだわらず、即刻改めなさい!」と。

【解説】
人間は過ちを犯す生きものですが、過ちにも、「知って犯す過ち」と「知らずに犯す過ち」の二つがあります。
普通に考えると、始めから悪いと知りながら犯す過ちは「故意」だから、何も知らず犯してしまう「過失」より何倍も罪が重いと考えがちです。
しかし、釈迦は弟子の質問に対して次のように云っている、「知らずに犯したる罪は、知りて犯したる罪に百倍す!」、つまり、知らずに犯す過ちの方が断然罪深いのだ!と。
何故でしょうか?
知らずに犯す過ちというのは、それが過ちであるかどうかすら分からない、つまり、善悪の道理が分からない訳ですから、省みることができません。
省みることが出来なければ、改めてみようがありません。
当の本人は少しも悪いことをしたと思っていないのですから、反省する気も改過する気も起きない訳です。
かくして本人は過ちに気付かぬまま、同じことを何度も何度も繰り返して、周囲に悪臭を撒き散らすこととなる。
善悪の道理の分からないことを「無明」と云いますが、孔子は「学べば則ち固ならず・学問をしてものごとの道理を弁えろ!野暮をこいちゃあいけないよ!」と云った訳ですね。
道徳的・社会的価値観のことを「情操」と云いますが、ものごとの善悪を教えることは情操教育の基本中の基本と云って良いでしょう。
基本的情操教育の場は家庭です。
ですから、親は情操教育の教師ってことになりますね。


【006】
有子(ゆうし)()わく、(れい)()(もっ)(たっと)しと()すは、先王(せんのう)(みち)(これ)()()す。小大(しょうだい)(これ)()れば、(おこな)われざる(ところ)あり。()()りて()すれども、(れい)(もっ)(これ)(せっ)せざれば、(また)(おこな)うべからざるなり。

【通釈】
有子云う、「礼制(制度)の運用には和を貴ぶことが大切で、古の王も和を美徳とした。しかし、何でもかんでも和だけに頼っていると、お互いに狎れ合ってうまく行かないことがある。だから、和の大切なことを知って和するのは結構だが、礼制(ルール)で折り目をつけないと、締りがなくなって行き詰まってしまうものだ」と。

【解説】
聖徳太子の十七条憲法の第一条に「以和為貴・和を以て貴しと為す」とありますが、これは太子オリジナルのものではありません。
論語のこの章から採ったものです。
聖徳太子は論語のみならず仏典にも精通していたようで、「法華経」の解説書『法華経義疏(ほけきょうぎしょ)』を著しています。
因みに、聖徳太子と云う名は、死後に贈られる諡号(しごう・おくりなのこと)で、聖徳太子という名の人物は実在しませんでした。
厩戸豊聰耳皇子(うまやどのとよとみみのおうじ)という立派な人物は実在しました。
有子とは弟子の有若のことで、孔子より13才年少。
容貌が孔子にそっくりだったそうで、孔子の死後しばらくの間、弟子達は有若を孔子の身代わりに仕立てて仕えたと云います。


【007】
()(のたま)わく、君子(くんし)(しょく)()くを(もと)むること()く、居安(きょやす)きを(もと)むること()し。(こと)(びん)にして(げん)(つつし)み、有道(ゆうどう)()きて(ただ)す。(がく)(この)むと()うべきのみ。

【通釈】
孔子云う、「学問修養を志す者は、美味いものを腹一杯食べて、快適な家に住みたいなどと云う願望は捨てなさい。それよりも、人として為さねばならぬことは敏速に実行し、口を慎む。有徳の人物に師事してこれをお手本として我が身を正して行く。こういう人を真の学問好きと云うのだ」と。

【解説】
君子とは、身分の高い人・上に立つ人・リーダーと考えて良いかと思いますが、国のレベルで云えば政治家や官僚、企業で云えば社長を始め取締役がこれに当ろうかと思いますが、国民や社員に美味いものを腹一杯食べさせてやりたい!快適な住まいを持たせてやりたい!と真っ先に考えるか?先ず自分が美味いものを食べ、いい家に住みたいと思うかで、リーダー(君子)の資質に天と地の開きが出てくるようです。
政治家の使命は、国及び国民の安・富・尊・栄を実現し、これを増幅拡大せしむる事にある!と云って良い。否、これ以外にはないと云っても良いでしょう。
これを地球規模に引き伸ばせば、地球及び地球人類の安・富・尊・栄を実現し、これを増幅拡大せしむる使命を負っているのが、宇宙時代の君子と云うことになる。
戦争をしたり・貧しい者が居たり・他国を貶めたり・堕落衰退したりと云う遅れた文明はもう卒業しましょう。
地球人類は、安・富・尊・栄が当たり前の、地上天国の住人になりましょうよ!
それでもまだ「イーヤ、今迄の地球の方が良い!奪い合ったり、殺しあったり、貶(おとし)めあったり、弱肉強食の方が良い!!」と云う方は、それでも構いません。自由意思(思いの自由)と自由意志(選択の自由)は万人に認められているのですから、それも魂修行の過程です。
ですが、この星(地球)はもうそのレベルは卒業して、次のステージに移行するんです。
これをシフトアップといったり、アセンションと云ったりする訳ですね。もういい加減飽きたでしょう?奪い合ったり、騙し合ったり、殺し合ったりするのは。
地上天国とは分かり易く云えば、分かち合い・助け合い・生かし合い・赦し合う世界のことです。
地球も、漸くそう云う星になるのです。



【008】
()(のたま)わく、(ひと)(おのれ)()らざるを(うれ)えず。(ひと)()らざるを(うれ)うるなり。

【通釈】

孔子云う、「人が自分のことを知ってくれない、などと思い煩う暇があったら、自分は一体どれ位人のことを知っているのか?を反省してみなさい」と。

【解説】
「善の研究」で知られる哲学者西田幾多郎は、京都大学の教授時代、「自分を知ってくれないとぼやく者に限って、人のことを知ろうとしない。又、人が自分のことを知ってくれないとぼやく者の中で、99%は自分に知ってもらうだけの能力がないことを棚に上げている」と云ったそうですが、身につまされますね。
知っているつもりで一番知らないのが、自分のことではないでしょうか。


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