H17/8 「精神世界へようこそ」

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平成17年度夏季合同例会

H17年8月27日(土)
  オークラホテル新潟    記録・佐々木塾・伊藤民子

Welcome to Spiritual World! 精神世界へようこそ!』

. はじめに 

5月度の必読書に挙げた「パワーかフォースか」、皆さん悪戦苦闘しながら二回三回と読んでおられるようですが、確かに一度サラッと読んだだけでは中々理解し辛い書物であります。

理解し辛い理由は、二つあろうかと思います。

一つは、この本はそもそもがログ800を超える非常に奥の深い意識レベルで貫かれている内容であるということ。今ひとつは、これを翻訳した、エハン・デラヴィという在日イギリス人の邦訳がまともな日本語になっていないということ。所謂、悪訳本なんですね。特にこの本のエッセンスともいうべき21章〜24章がスカッと意味の通る日本語になっていない。恐らくエハン氏自身この章に関しては、英語の原文の意味がよく理解できなかったのではないか?したがって訳文も意味不鮮明のまま直訳せざるを得なかったのではないでしょうか。

今申しましたように、この本の内容は意識レベル800を打ちますが、邦訳文のレベルは375、翻訳者エハン・デラヴィ氏本人の意識レベルは300ですから、彼を責めることはできません。むしろ、よくやった!というべきでしょう。本当は渡部昇一さんか、そのお弟子さんの中山理(おさむ)さんあたりにしっかりした監修を依頼すれば、立派な翻訳になったのではないかと思いますが、まあ悪訳といえども、五回位も読めば原著者の真意がビンビンと伝わって来ますから、諦めず五〜六回は読んでみてください。これほど意識レベルの高い本には、そう滅多にお目かかれるものではありませんからね。

本書は、アメリカは勿論のこと、デンマークや韓国でもベストセラーになったそうですが、わが日本では、出版されてから一年近く経つというのに、ベストセラーはおろか、大した話題にすらならない理由も、翻訳のまずさにあるのではないかと思います。読み辛いですから。

ここ一〜二年で皆さんに紹介した書籍の中で、レベル800を超えるものといえば・・、昨年4月に推薦したマクドナルド・ベイン著「心身の神癒」霞ヶ関書房、これが890を打ちます。猛烈に意識の高い本です。

キネシオロジーテストそのものはとても簡単で、いつでも・どこでも・誰でもできる検査法ですから、皆さんもご自分の意識レベル位は測ってみたのではないかと思いますが、自分は200代だから、或いは300代だから、レベル800以上のものなんか理解出来る筈がない!?などとバカなことを考えてはいけません。

すべての人間には、同じ神の種・仏の種が宿っているのですから、生まれつき頭が壊れているのでもない限り、文字さえ読めれば万人が理解できるようになっているのです。スーッと理解できるか、しばらく時間がかかるかの違いだけなんですね。

その証拠に皆さんは、今「新論語」・「子供論語」を学んでおられる。あれ、とても分かり易いでしょ?簡単でしょう?どれ位のレベルを打つか分かりますか?

新論語の〔通釈文〕はレベル830、〔解説文〕は840、子供論語の〔意訳文〕はレベル790、〔親御さんへ〕は840、トータルで839! いかがですか?

こんなに意識レベルの高いものを皆さんは何の苦もなくスラスラと、しかも楽しく学んでおられる。嘘だと思うなら、皆さんも一度キネシオロジーで測ってみたら良い。ちゃんと839と出ますから。これを書いている私自身、勿論800以上の意識レベルなどある訳がありませんから、はるか高次のどなたかの意識体からインスピレーションを受けて書かされている。つまり、私はその方の媒体でしかありません。私自身の頭から出た文言ではないんです。私の地力では、800を超えるようなものはとても書けません。そうですね、地力で書けるのはせいぜい575止まりでしょうか? 600にも届きません。

私を含めた所の「論語に学ぶ会」全体の集合意識レベルがどれ位あるか分かりますか?475もあるんですよ! 当会は!! こんなに高い意識レベルの集団はちょっと他にはありません。

解散前の衆議院全体の集合意識レベルは340。
現在の参議院全体の集合意識レベルは325。
今のキャリア官僚全体の意識レベルは300。

残念ながらこんなもんなんですよ、国会議員だ、国家エリートだと云った所で。

今回注目の新潟5区に出馬するT・Mは175しかない。人間以下の修羅界の人です。対抗馬のY・Rは450、比例区から出る旧山古志村村長のN・Tは490。共に縁覚です。サア、長岡の人は修羅を選ぶのか?縁覚を選ぶのか?結果が楽しみですね。

これで分かるね、長岡地区の住民の集合意識レベルが。本日長岡から御越しの皆さんは、きっと頭が痛いだろうね、T・Mが当選するようなことにでもなれば・・・。ゴリラのココちゃんより程度の低い人物を選んだことになるのだから。(因みに、ココちゃんは250あるそうです)

当会のレベル475というと、縁覚の上段階、あと一歩で菩薩に手が届く所まで来ている。但し、499と500の間には、「仁者の壁」という厚い厚い壁がある。この壁を突破するには、199と200の間にある「バカの壁」をブチ破る百倍のエネルギーが要る。ところが驚いたことに、最近当会会員の中で499の壁を突破して、500の菩薩の意識レベルを打つ人が二名出てきた。この二人が誕生時に持っていた意識レベルを測ってみると、ともに490ですから、今世一気に突破した訳です。この人たちの協力を頂いて、ともかく皆さん全員を、今世499の壁まではお連れしたいと念願しております。うまく行くと、あと10人くらいの方がこの壁を突破できるかも知れません。ギリギリの所まで来ています。

「パワーかフォースか」の中で著者のデヴィット・ホーキンズ博士は、一回の転生で普通は5ポイント、余程環境に恵まれて35ポイント上げるのが精一杯である、と述べておられますが、私は皆さんに今世100ポイントは上げて頂きたいと思っております。

例会一回の講義で、1ポイント。年間十回で10ポイント。これを十年続ければ100ポイントアップする。このような方針で現在毎月の講義を進めております。ですから、休めばその分だけ確実に遅れる。周りが着実に上がって来ておりますから、その地点から見ると退歩したように見えるんですね。欠席の多い方は。

仕事の都合でどうしても講義に出られない時は、懇親会だけでも出席した方が良い。意識は目に見えないエネルギーですから、当会の集合意識にはそれだけのパワーを持ったエネルギーフィールドが形成されている。そのフィールドに身と心を浸すだけでも、いくらか退歩は食い止められるでしょう。まあ、中には、酒を飲むと全部忘れてしまう!という方も何人かおられるようですが、そう気にする必要はありません。酒など飲まなくても、三歩歩くときれいさっぱり忘れてしまう人もいるんですからね。ただ、忘れたと思っているのは顕在意識の方でありまして、潜在意識は、一度学んだら決して忘れることがありません。あの世に帰ればすべて思い出しますから、そう慌てることもないでしょう。

あの世、この世と云った所で、はるか遠く離れたまったく別の世界というものではなくて、この世は魂が肉体を着て生きている世界、あの世は肉体を脱ぎ捨てて魂だけで生きている世界ですから、意識そのものに変わりがある訳ではありません。隣り合わせなんです。但しそこは、この地上と違って、意識に見合った世界が無数に展開しておりますから、どの世界の住人になるかは貴方の意識次第というわけです。

前置きが長くなりましたが、本日の演題は、『Welcome to Spiritual World! 精神世界へようこそ!』と云うものであります。精神世界とは、将に意識の世界のことでありますから、今日はその世界の話をじっくりとしてみたいと思います。


. 精神世界の実相


私たちはこうして肉体を着て生活しておりますと、この三次元物質世界こそが実在であって、目にも見えず、耳にも聞こえない精神世界は、物質世界の飾り物に過ぎない、空想の世界に過ぎない!と錯覚してしまいがちであります。更にこれが高ずると、「この世界は物質がすべて、人間は肉体がすべて!」と勘違いして、「死んでしまえば一巻の終わり。たった一度きりの人生だから、生きているうちに、カネも欲しい!地位も欲しい! 名誉も欲しい! 異性も欲しい! 健康も欲しい! 寿命も欲しい! もっともっと! もっともっと・・!!」と欲に凝り固まってしまう。

欲望そのものは、程々ならば善でも悪でもなく、本来価値中立的なものなのですが、欲望は必ずもっともっととエスカレートする習性を持っておりますから、次第に「自分さえ良ければ人はどうなろうとかまわない!」となって、遂には奪い合い、殺し合いまで演じてしまうこととなる。

今から二千五百年前、釈迦は「諸法無我」・すべての物質には実体が無い!と教えました。また、同じ頃老子は「営魄に載(みつ)」・肉体は魂の乗り舟に過ぎない!と説いた。

皆さん「老子」を全編やりましたから覚えているでしょう? 老子第十章冒頭にあった言葉です。「老子」書は、全編これ目にも見えず耳にも聞こえない世界、つまり、暗在系の真理を述べたものなんですね。

先程「この世は魂が肉体を着て生きている世界、あの世は肉体を脱ぎ捨てて魂だけで生きている世界であって、まったく別の世界ではなく、隣り合わせなのだ!」と申しました。つまり、普段私たちが云う「死」とは、物質即ち肉体が死ぬだけなのでありまして、魂は決して死ぬことはない永遠不滅の存在であります。ここがしっかり分かっていないと、この世のみならず、あの世に還ってからも迷いの世界を彷徨することとなります。

推薦図書に挙げた、A・ファーニスの「スピリットランド」や「死後世界地図パートT・パートU」の中で、主人公のフランチェッツオがその様子を詳しく語っていましたね。

肉体死は人の死ではありません!人は死にたくても死ねない存在なんです。肉体死を以ってすべてが消滅してしまう、The End!と思ったら大間違いです。ところがどう云う訳か、大半の方が肉体死を以って“The End” と勘違いしている。肉体死を以ってThe Endと勘違いするとどうなるかと云えば、「死」が最大の恐怖になります。肉体我(これを偽我と云いますが)を真我と錯覚してしまいますから、肉体が亡くなればすべてが亡くなる、消滅すると思い込んでしまう。人間は消滅することほど恐ろしいものはありません。ですから肉体死が最大の恐怖となる訳です。

錯覚に基づいたこの恐怖が何に変貌するか、皆さん分かりますか?これこそが「欲望」の根っこになるんです、恐怖がね。ここはよく覚えておいて下さい。命には限りがある!と思い込んでしまいますと、ならば限りあるうちに、肉体我・偽我つまり肉の感官を喜ばすものなら何でもやってしまおうとなりまして、アレもコレも、もっともっとと我利我利亡者になってしまう。つまり、欲望というのは、恐怖を一時紛らわす為の隠れ蓑なんですね。実体のない儚いものの為に一生捧げてしまうなんて、こんなバカな話しはないでしょう。

さて、今ほど肉体我は偽我、即ちニセモノの自分であると申し上げました。では、真我、本物の自分とはいったい何なのでしょうか?それが、先程から申し上げている永遠不滅の「魂」というものなんです。しかし、魂が究極の真我かというとそうでもありません。魂の底の底を貫いている神性・仏性、これが本当の真我、つまり「神我」であります。神なる我ですね。神我のことをキリスト教では「キリスト意識」、仏教では「仏陀」、道教では「道(タオ)」、儒教では「天」と云う訳ですが、キネシオロジーで言う所のレベル1000の意識がこれに当たります。すべての人間の魂の底の底には、本来この神我・レベル1000の意識が内在しているんですね。

つまり、私たち人間一人一人は皆神の分身なんです。根っこの所ですべて神とつながっているんです。根っこの所ですべてが神につながっていると云うことは、私もあなたも、日本人もアメリカ人も、アラブ人もユダヤ人も、すべては一体のものである!ということであります。絵に描いてみると分かりやすいでしょうか・・・・。
 


 

 

 

 

 

 

※ 海の上から見ると、陸地や島(個人個人)は個別に分離しているように見えるけれども、海底ではすべて大地でつながっている。この大地が神我(神性・仏性)と考えてよい。


これで分かりましたね。魂というのは、神の意識が個別化して(これを分霊わけみたまと云う)個性化した意識体のことを云うわけですね。これが岡博志の魂であったり、小川加津晃の魂であったり、高橋登の魂であったりする訳でありまして、一人一人が神の分身・神の意識が個性化した存在なんですね。まさかあの登ちゃんが神の分身だなんて!冗談でしょ?などと言ってはいけません!あれはあれで、立派な神の顕現のし方なんです。釈迦も云っているではないですか、「一切衆生悉有仏性」・すべての人間に仏の種・神の意識が宿る、と。

さて、では神我の更に奥の奥には一体何があるのでしょうか。究極最奥の神意識というのはどんなものでしょうか?残念ながら私にはよく分かりません。この最奥の神意識のことを、私たちは創造主と言ったり、造物主と呼んだりしている訳ですが、一体全体どんな意識なのでしょうか?

老子はレベル990を打つ精神界の巨人ですが、その老子でさえ「玄のまた玄は衆妙の門なり」と言って、奥のそのまた奥は玄(真っ黒け)でよく分からないと言っている。地球人類で究極最奥の神意識を会得していたのは、釈迦と孔子とイエスくらいのものかも知れません。この御三方は、いずれもレベル1000を打つ方々ですが、レベル1000とは、究極最奥の神意識を会得した方、悟った方の意識レベルを云う訳ですね。

では、レベル1000など及びもつかない我々凡人には、究極最奥の神意識を知る手がかりが全く無いのか?と云えばそうでもない。イエスは「我を見るものは父なる神を見るのである!」と語っておりますから、この父なる神というのが究極最奥の神意識・創造主の意識ということです。つまり、我々凡人は、直には知ることは出来ないかも知れないが、レベル1000の意識を持つ釈迦や孔子やイエスを通してならば、究極の神意識を知ることが出来るのだ、ということになります。彼らを通して知るとは、彼らの意識を通して知ることです。幸いにも彼らの意識の一端が、仏典・論語・新約聖書に文字として残されている。その気になりさえすれば誰でも読むことが出来る。私が常々皆さんに「論語でも、法華経でも、新約聖書でもどれでも良いから、一度ボロボロになるまで読み込んでみよ!」と申し上げているのは、心を裸にして釈迦や孔子やイエスの意識の門をくぐってみなさい!彼らの意識のエネルギーフィールドに一度あなたの魂を浸してみなさい!ということなんです。



三.    「悟り」って何のこと?

悟りというと、幽体離脱や心霊現象、超常体験や霊視・予知の能力を得ることだと勘違いしている人が随分おられます。当会にもいるのではないかな?予知や心霊治療や方位に凝っている人が。

先日も昔からの友人が来まして、「悟り体験」のワークショップがあるから一緒に行ってみないか?と誘われましたのでついて行ってみると、そこには40人くらいの人が集まっておりました。参加費が一人15,000円で、40人で一日60万円の売り上げか!・・結構いい稼ぎになるもんだなぁと思いながら講師の話を聞いておりますと、この人はインドに行ってK・Bというグルの導きで悟ったのだと云う。

K・Bはヒンズー教の最高神クリシュナの生まれ変わりで、最後の救世主として下生したのだといいますので、「クリシュナはイエスキリストの過去生だから、ならばK・B氏はイエスの生まれ変わりか?」と問いますと、「エッ!」と言ったきり暫く黙り込んでしまいました。

何も答えないまま「悟りは言葉で表現できるものではなく、体験するものだから早速実習に入りましょう!」となって、何をするのかと思ったら、サンスクリット語の般若心経のテープをかけ、インド産の変わった香を焚き、会場の照明を落とした後、「全員仰向けに寝てください!」と云う。

これから悟りの世界に意識を誘導するから、まず20階建てのビルの最上階からエレベーターに乗る自分をイメージして下さい・・・となって、以下ゆっくりと下の階に降りて行く。1階に着くと、「はい、悟りの国の入口に着きました。エレベーターを降りて自由に散歩してください」という指示があり、この状態が1時間程続く。グーグーいびきをかいて眠る人・泣きだす人・全身が痙攣して震える人・嘔吐する人、私の友人はどうかと見れば、高いびきで寝ている。

これは面白そうだと思い、起き上がってあたりをじっくり観察しておりますと、講師がやってきて「寝てください!」と言う。「昨日タップリ寝たから眠くない!」と答えますと、「目を閉じて静かにしていれば自然に眠くなるから、我慢して寝なさいっ!」と言うので、その通りにしていると確かに眠くなってきて、30分程眠ってしまいました。1時間程経つと講師から「これから数を七つ数えると、身も心もスッキリして悟りの国から現実に戻ります。それでは・・七〜六〜五〜四〜三〜二〜一!! ハイッ目を開けて下さい。これで午前の部は終わります。

昼食後一時から午後の部に入ります!」と休憩に入ったものの、そのまま起き上がれなくなった人が二人ほどいました。昼食をとりながら受講者の方々と雑談しておりましたら、皆さん五回〜十回と参加しているベテランばかりで、中には今回が20回目だという人が居りましたので、「悟りましたか?」と聞きますと、「ぜ〜んぜん!!」と来た。「だったら何しに来てるの?」と重ねて問いますと、「他にこれと云ってすることが無いから・・・」と言う。なるほど、こういう暇の潰し方もあるのか?とびっくりした次第です。

午後の部も同じような実習があって、3時頃終了すると、講師が「何か質問はありますか?」と言いますので、「講師がインドで悟りを得たときの状態はどんなものだったのでしょうか?」と問いますと、「幻覚剤のようなものを飲まされて、ゲロを吐くだけ吐いて朦朧としていた時、突然星雲が渦巻く中に自分がコルクのような状態で浮いていた。これが悟りです」との答え。「な〜んだ、そんなことなら子供のころ風邪をひいて熱が出ると、決まって渦の中に自分が浮いている夢を見てうなされたものだが、これが悟りですか!?」と言った途端、会場がシラ〜ッとなってしまった。本当は「バカも休み休み言いなさい!」と言ってやりたかったのですが、友人の顔を潰す訳にもいきませんので、これ以上は突っ込みませんでした。

後で友人から聞いたところでは、受講者の中にはN大学の教授が一人、助教授が一人、講師はO大学で理論物理学の教授をやっていると云うではないですか?本当にバカも休み休みにしてもらいたいものです。参加料15,000円も払うのなら、ヘネシーのエクストラを買えますから、ブランデーを傾けながら、ゆったりとヘンデルでも聴いていた方が良かったね。

インドにはインチキ・グルやニセ預言者が沢山いて、外貨獲得に一役買っているそうですから、これもその類かと思って、K・B氏のキネシオロジーをやってみると、ちゃんと600を打つ梵天です。どこか途中で捻じ曲げられているのではないでしょうか。

このように、こと「悟り」というものに関しては、「悟りとは言葉や理屈ではありません。体験です!」などと云われると、国立大学の教授や助教授でさえコロリとやられてしまう。悟ったかどうかを証明するものがありませんからね。先ほど申しましたように、悟りとは究極最奥の神意識を会得すること、真理を会得することを云います。

真理とは本当に本当のことであります。ですから、言葉を換えて云うならば、「悟りとは、宇宙の根源的本性、即ち、究極最奥の神意識と一体となること」であります。ここはしっかり覚えておいて下さい。心霊現象や超常体験や霊能力などは本性ではなく属性、悟りに伴うオマケ、飴を包んでいる笹、刺身に添えるツマに過ぎません。

本物よりオマケを喜び、飴より笹を喜び、刺身よりツマを喜ぶバカが何処に居りますか! ところが、目に見えるものの本性と属性、例えば、飴に対する笹、刺身に対するツマのようなものは誰にも分かるけれども、目に見えないものの本性・属性となると我々凡人は盲目になってしまうんですね。どれが本性でどれが属性か分からなくなってしまう。結果、超能力信仰・占い信仰・念力信仰に振り回されてしまう。だからといって、私はこれらがインチキだとかペテンだとかと云っている訳ではありません。否定しているのではありません。本性に対する属性、主役に対する脇役、本物に対する付録であると云っているんです。悟りに伴うオマケのようなものであって、悟りそのものではない!・・と云っているんです。

では一体、我々凡人はどうしたら悟れるのでしょうか?宇宙の根源的本性・究極最奥の神意識と一体になることが出来るのでしょうか?一生悟れないまま肉の感官に振り回されて(これを煩悩障碍という)生きなければならんのでしょうか?私はそうは思いません!こう考えられないでしょうか?悟りとは宇宙の根源的本性・究極最奥の神意識を会得すること、我がものとすることだとするならば、その前に宇宙の根源的本性・究極最奥の神意識とはいかなるものか?を知らなければなりません。

地球人類でこれを知っていたのは、釈迦・孔子・イエスのお三方ですから、私たちはこの三人の意識を通してならば、究極最奥の神意識の一端を垣間見ることが出来るかも知れない、知ることが出来るかも知れない。釈迦・孔子・イエスの意識と同通するには、このお三方の教えにどっぷりと漬かってみる他はない、エネルギーフィールドに魂を浸してみる他はない。

そんなこんなで、爾来二十数年間、精神世界の探求・真理の探究をやってきたつもりですが、最近になってようやくほんの少しだけ分かるようになってきたような気がします。釈迦や孔子やイエスの意識の万分の一くらいが・・・・。

何故孔子が「我を知る者は其れ天か」と言い、イエスが「私は道、真理、生命(いのち)である。私を介してでなければ誰も父のもとに行くことはできない」と言い、釈迦が「一切有情悉皆成仏」と言ったのかが。この「一切有情悉皆成仏」という言葉程、後世に誤って伝えられているものはありませんね。皆さんはこれを「人間は死ねば誰でも成仏する。いずれは仏になれるんだ」と解釈していませんか?これは間違いです。本当の意味は「すべての人間は、仏が成らしめている存在である。仏陀の分身である!」ということなんです。だから「一切衆生悉有仏性」、すべての人間には仏の種が宿っている、仏性が宿っているとなるんですね。

だがしかし、この謎を解くカギは、私の知る限り「論語」の中にはない。「法華経」の中にもない。唯一あるのは、新約ヨハネによる福音書第一章であります。有名な文章なので知らない人はいないでしょう。 曰く「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言(ことば)は初めに神と共にあった。すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中(うち)に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった」と。

ここに出てくる言(ことば)とは、普段私たちが使っている言語としての言(ことば)ではありません。意識としての言、つまり「言霊(ことだま)」のことでありますが、ちょっと分かりにくいので「意識」のことと考えてよいでしょう。また闇とは、皆さんがこれが自分だ!と錯覚している肉の感官による肉体我・偽我、つまり物質・肉体のことです。それでは文言を入れ換えてもう一度読み直してみましょう。

『初めに意識があった。意識は神と共にあった。意識は神であった。この意識は初めに神と共にあった。すべてのものは意識によってできた。できたもののうち、一つとして意識によらないものはなかった。この意識に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は肉の感官の中(うち)に輝いている。そして肉の感官はこれを理解しなかった』と。これでスッキリしたでしょう? つまりこういうことなんですよ、究極最奥の神の本性とは、神=意識=創造=生命(いのち)=光=キリスト(神我・愛)=人(真我・叡智)

これをもう少し整理して表現してみると次のようになります。

『吾が魂の底の底なる神よ! 神は無限の愛の光  神は無限の生命(いのち)の光  神は無限の創造の光 神は無限の叡智の光なり』と。

人は神の分霊(わけみたま)・分身ですから、神のところに人を代入すると、
『人は無限の愛の光 人は無限の生命(いのち)の光 人は無限の創造の光 人は無限の叡智の光なり』となる。

更に、私たちは全員が人ですから、人のところに吾を代入すると、
『吾は無限の愛の光 吾は無限の生命(いのち)の光 吾は無限の創造の光 吾は無限の叡智の光なり』となります。

そう! これなんです! 人間の正体は!! これが肉の感官から来る肉体我・偽我を去った、神我・人間の実相・人間の本当の姿なんです。あなたも、私も、日本人も、世界人類同胞も、すべては神の子、光の子なんです。

無限の愛の光・無限の生命(いのち)の光・無限の創造の光・無限の叡智の光を宿し、放っている存在なんです。

ならば、もっともっと人に優しく在りなさい!もっともっと力強く在りなさい!もっともっとクリエイティブで在りなさい!もっともっと賢く在りなさい!そして、もっともっと光り輝きなさい!!あなた達は神の無限の生命(いのち)を生きている存在なんです!神の生命(いのち)そのものなんです!!これは皆さんに向かって云っているのではない、私自身に言い聞かせているんです。なぜならば、私とあなた達とは、元々一体の生命だからです。

仏教に「解脱(げだつ)」という言葉があります。解脱とは、肉の感官の束縛から解放されて、絶対自由の境地に達することを云いますが、分かりやすく云いますと、「吾は無限の愛の光、吾は無限の生命(いのち)の光、吾は無限の創造の光、吾は無限の叡智の光である!」と知った状態を解脱と云うんですね。

肉の感官の奴隷となってはいけません! 肉体我・偽我とは、肉の感官の奴隷になった状態を云うんです。これが「バカの壁」を破れない状態、ログ200未満のことです。



四.    「仁者の壁(500)」をブチ破れ!

さて、お手元の「儒教的悟りの階梯」の資料をご覧ください。今回はそこに中庸の発現レベルに対応するキネシオロジーポイントを入れておきました。この儒教的悟りの階梯については、もう十回以上も皆さんにお話して来たかと思いますが、その都度、仁の土台は第三段階「忠恵」・中庸の発現レベルは第三段階「地縁レベル」を必達目標としなさい!そして、仁の土台第四段階「寛恕」・中庸の発現レベル第四段階「人縁レベル」を挑戦目標にしなさい!と言い続けて参りました。この図は、人間の意識を立体的構造物に喩えてみたものですが、どんなに大きな人物になるか? どんなに立派な家を建てるかは、自ら掘った仁の土台の深さに比例する!徳はすべて仁ベースである!とは、皆さん耳にタコが出来る程聞かされてきた筈です。

仁とは、人を思いやる心・利他の愛のことです。先ほど499と500の間には「仁者の壁」という厚い厚い壁があると申し上げました。この図で云うと、第三段階「忠恵」と第四段階「寛恕」の間に当たります。第三段階縁覚の仁は「奉仕の仁」、第四段階菩薩の仁は「献身の仁」と書いてあります。奉仕も献身も似たようなものではないか?と思われるかも知れませんが、奉仕の仁と献身の仁の決定的な違いがどこにあるかと申しますと、奉仕の仁は、まだ自他の区別がはっきりとあって、「自分は自分、人は人! 放っとけ、ほっとけ!」という冷めたところがある。これに対して献身の仁は、自他の区別が殆どなくなって、「他人ごととは思えない! 放っておけない!」という熱いものがある。そうですねえ、「何々の為に!」と云うのが奉仕の仁、「何々とともに!」というのが献身の仁と云った方が分かりやすいでしょうか。

縁覚の仁には、まだ自分が主、他人は従、自分が先、他人は後という自他の別がありますが、菩薩の仁には、自も他も一緒で、自他の別がなくなる。まあ、縁覚の仁は「アマチュアの仁」、菩薩の仁は「プロの仁」と云ったところでしょうか。つまり、仁者の壁・500の壁を突破するとは、仁のプロ試験に合格するようなものなんですね。

では一体どうしたら私たちは仁のプロ試験に合格できるのでしょうか?仁のプロフェッショナルになれるのでしょうか?最後にそのヒントを紹介して本日の話を締めくくりたいと思います。出来そうもないことは言いません。ちょっと工夫すれば誰でも出来ることしか言いませんから、どうか実践してみてください。


[ヒント1] 寝る前に30分でいいから必ず「静なる聖なる」時間を持ちなさい。

       「静かなる神聖なる時間を持ちなさい!」。


[ヒント2] その時に、今日一日の中で、思ったこと・言ったこと・行なったこと・
        即ち、身・口・意を振り返ってみなさい。

[ヒント3] 振り返ってみて「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」に反するようなことを、
        思ったり・言ったり・行なったりしなかったか?
        あったら即座に心の中でお詫びをしなさい、「ごめんなさい!」と。

[ヒント4] 振り返ってみて「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」
       自分がこうありたい、ああなりたいと思うことを、進んで人にやってあげたか?
       無かったら「明日は必ず実行する!」と心に誓いなさい。

       「すべて人にせられんと思うことは、人にも又その如くせよ!」ということです。


[ヒント5] そして最後に、「吾が魂の底の底なる神よ! 
        神は無限の愛の光・神は無限の生命(いのち)の光・神は無限の創造の光・
        神は無限の叡智の光。神の全能の光流れ入る ・・
        流れ入る・・流れ入る・・・流れ入る・・」。

        「吾は無限の愛の光・吾は無限の生命(いのち)の光・吾は無限の創造の光・
        吾は無限の叡智の光。吾が全能の光湧き出(いで)る・・
        湧き出る・・湧き出る・・湧き出る・・」と三度唱えたら、
        「ありがとうございます!」と言って眠りなさい。

これだけです。そんなことで菩薩になれるのか?ですって? まあいいからやってみなさい!「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」を実践することがいかに大変なことか、「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」を実践することがどれ程大変なことかが分かりますから。

それからもう一つ、「新論語」「子供論語」はもうちょっと気合を入れて学びなさい。
839ポイントもあるんだからね。毎月の例会は休まず出席するようにしなさい。休めば休む程「仁者の壁」は厚くなる。友人知人で論語に興味のある人がいたら、どんどん連れて来なさい。これも立派な菩薩行なんだからね。

以上で本日の講話を終わります。