H16/8 君よ論語の語り部たれ

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■「論語に学ぶ会」 2004年 新春特別講話  H16年1月24日 於クオリスビル 信濃川 

『君よ、論語の語り部たれ!』

.論語ブームの背景
      (1)
「根本的に狂っている」と気付いた人々
   (2)
失われた精神支柱を求めて
      (3)
なぜ今論語か

 
.日本人と論語のかかわり
      (1)
「論語」書の成立と伝来?普及
      (2)
支那に於ける論語・日本に於ける論語
      (3)
偉大な思想は時空を超えて進化する

.君よ、論語の語り部たれ

      (1)
教うるは学ぶの半ばなり
      (2)
論語を学ぶのではない、論語に学ぶのだ
      (3)
「論語読みの論語知らず」でいいんだよ 


.論語ブームの背景

 皆さん概にお気付きかと思いますが、昨年来論語が至る所で話題になっておりまして、NHK教育TVの幼児向けの番組でもとりあげられたりしております。私が本気で論語を読むようになったのは35歳頃からですから、足掛け22年、当会が設立されてから足掛け12年になりますが、これ程論語が頻繁に世間の話題に登るようになったことは今迄に一度もありませんでした。一般的には、道徳の干物か倫理の化石くらいにしか思われておりませんでしたからね、論語は。

ところが、昨年あたりから、あちこちの会合に出ますと、それ程親しく付き合ったこともない方々から「論語をやっているんですってね!?」と、よく声をかけられますし、当会に青年諸君がどっと増えて来たのも昨年からです。皆さんも最近経験があるんではないですか?「論語をやっています!」と云ったとたんに、相手が居住まいを正して目の色が変わるのを!?十年前には考えられないことだったんですよ、こんなことは。「論語に学ぶ会」などと云ったら「へぇ?!老後の会ですか?」と、おちょくられた人もいるんですから。

皆さんのご協力を頂いて、当会のホームページを開設してから半年近くになりますが、12月末でアクセスの数が1500件位ですから、月に250件・日に8件はあるんですね、訪問者が。時折問い合わせが来ますので、きちんと答えるようにしておりますが、年末にJC東海から、青年の船「とうかい号」の洋上研修で論語を講じてもらえぬか?との依頼があり、暮れも押し迫った1229日運営委員長の古澤さんという方がわざわざ新潟迄訪ねて来られましたので、JCOBの小川加津晃さんにご同席頂き、ホームペー事務局の小原王明さんと相談の上お引き受けすることに致しました。

二十代の青年四百数十名を乗せて、グァム島迄往復するそうで、6月5日〜13日迄の9日間行って来ることになりました。そのような訳で、6 月度は第一土曜と第二土曜が海の上ですので三期生の皆さんには誠に申し訳ありませんが5月度二回の例会となります。

運営委員長古澤氏の話によりますと、JC青年の船「とうかい号」は今年で31回目の洋上研修だそうですが、論語をやるのは初めてとのことでした。五徳の中で特に「仁・(人を思いやる心)」と「義・(義を見て為ざるは勇なきなり)」を重点的に語って欲しい、ということです。

二十代の青年425名の前で論語を講じてくれ、それも仁と義について・・・、などとは、明らかに日本人の心に何らかの地殻変動が起きつつあるとか考えられません。一体どのような社会的背景があるのでしょうか?私なりに思い当たる所を述べてみたいと思います。(H1512月末までは、当会ホームページに日に8件程度のアクセスでしたが、H161月に入ってから日に、100件以上の訪問者があります。)



 (1)「根本的に狂っている」と気付いた人々

いかに平和ボケしている日本人と雖もバブルが起こり->はじけて->今日に至る迄の178年間を振り返ってみた時、「この国はだんだん悪くなってる、益々オカシクなっている」と感じない人は恐らくいないのではないでしょうか。経済面のみならず、政治面に於ても・治安等の社会面に於ても・家庭、学校を含む教育面に於ても・風俗等の文化面に於ても、この国を国としてあらしめているタガがここに来て一斉に外れかけているのではないか?何かが「根本的に狂っているのではないか?」と、多くの人々が気付き始めたのではないでしょうか。


 
「何かが根本的に狂っている」・・・・、では一体何が狂っているのか!?制度(システム)ですか?規則(ルール)ですか?方式(ノウハウ)ですか?技術(テクニック)ですか?でも、これってみな人間が作ることでしょう!日本の制度や規則や方式や技術は、みな日本人が決め日本人が作るものでしょう!?ならば制度や規則や方式や技術なんかの次元の問題じゃない。この国が段々悪くなり、益々オカシクなって来たのは日本人そのものが段々悪くなり益々オカシクなって来たからではないんですか!?

なる程、日本人自身に問題があることは分ったが、では一体日本人の何が悪くなりオカシクなったのか?国民の半数以上が短大や大学に行って高等教育を受けるようになったにもかかわらず・・・・。頭脳が狂っている訳ではない・・・、技能が狂っている訳でもない・・・、とすると・・・ひょっとしてその根っこにある精神がイカレてしまったんではないか・・・?と、多くの人々がうすうす気付き始めた。

しかし、ここで一様に皆ハタと考え込んでしまう。「精神が狂ってるとすれば、一体いかなる精神を以って、物事の正邪・理否・曲直、更には貴賤・美醜を判断すれば云いのだろうか?自分にはそもそもその拠り所になる精神支柱などと云うものがあるのだろうか?精神教育など家庭でも学校でも職場でもされたことがないし、仏教もキリスト教も儒教も真剣に学んだこともない。考えてみれば戦後60年間、日本人は精神教育などおかまいなしで、ひたすら拝金拝 物主義でつっ走って来たのではなかったか!?」と。精神支柱がなければ、たとえ法律に反していないと云っても、それが貴いことなのか賤しいことなのか?立派なことなのか醜いことなのか?即ち美徳か悪徳かの判断がつきません。

最近道徳の乱れがかまびすしく語られておりますが、道徳とは合法か違法かを分かつものではなく、美徳か悪徳か?立派か賤しいか?を自ら律する「内なる裁判官」のよ うなものでありまして、これは道徳教育が国民一人一人の道徳をつくるのではありません。精神教育が道徳をつくるんです。ここを間違ってはいけません!道徳の乱れを口にする人々もここを勘違いしているんですね。

ですから戦前は「修身」と云ったんです。修身とは、自らが自らを律する為の精神教育のことです。精神教育さえきちんとやっておけば、道徳は自然に身に付くことを知っていたんですね、昔の人は。欧米のキリスト教国では「宗教なき所に道徳なし!」と云われておりますが、宗教とはそのそもが精神教育そのものだからなんですね。従って「精神教育 なき所に道徳なし!」と読み換えていいでしょう。

大東亜戦争で負けて、GHQによる徹底した日本人改造計画・日本精神骨抜き政策が行なわれて60年、やっと気が付 いたと云った所でしょうか、日本人が。精神的根無し草になっていた事に!



(2) 失われた精神支柱を求めて

今程「道徳教育が道徳をつくるのではない!精神教育が道徳をつくるのだ!!」と申しましたが、精神教育とは換言すれば「心の教育」ということです。

前に何度か紹介した、19世紀スイスの哲学者アンリ・フレデリク・アミエルの箴言に「心が変われば態度が変わる。態度が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば人生が変わる。」とありましたが、これをもっと噛み砕いて云いますと「精神が変われば物事の見方・捉え方が変わり?物事の見方・捉え方が変われば思考や表言や行動(つまり身・口・意)の様式が変り?身・口・意の様式が変れば人品骨柄が変り?人品骨柄が変れば人生まで変ってしまう」となります。 つまり、良くも悪くもつまる所は精神次第心次第ということですね。

これは個人に限らず、民主主義・国民主権の国ならば国家レベルにも当てはまると思います。曰く「国民の精神が変われば代議士の姿勢が変る?代議士の姿勢が変れば 政治の様態が変る?政治の様態が変れば国風が変る?国風が変れば国運が変る」と。国民一人一人が気高い精神を持つか賤しい精神を持つかによって、国風はおろか 国運まで変ってしまうのですから、精神教育は決しておろそかにできません。

残念ながら我が国は、戦後の60年間、国民に気高い精神を養わせるような教育は何もなされて来なかった、というよりはむしろ、賤しい精神を持つように仕向けられて来た! と云えるのではないでしょうか。だが漸くそこに気が付き始めた訳です、日本人が。あまりにもひどい昨今の世相を見て。

喩えば最近の話題では、


 
 1.国家公務員の退職金水増事件が発覚して「民間ではリストラや給料カット、退職金減額で皆苦しんでいると
      云うのに、国民の血税で養ってもらってる公務員が、そんな身勝手なことをしていいのか!いかなる社会正義が
      あると云うんだ!!『利を見ては義を思い』だろう!?」


 
 2.半年も前の鶏卵の不良在庫5万個出荷事件では、「いかに食品衛生法に違反していないとは云え、ちょっとヒ
      ドイんじゃないの!?儲かりさえすれば何でもありってことかよ!こいつらに良心ってものがあるのか!?
      『利によりて行なえば怨多し』だぞ!」


 
 3.本年4月1日からの小売価格総額表示に対しては「本体価格と消費税の別表示で何の不都合もないでは
      ないか!消費税が上がるなら上がるとはっきり云えばいい じゃないか!総額表示にしておけば、消費税率を
      上げた時に国民の目を晦まし易いって魂胆だろう、政府は!
      これって『民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず』を悪用してるんじゃないの!!」と。


まぁ一つ一つ挙げて行ったらきりがありませんが口には出さないもの、多くの人が心のどこかで論語の文言に照らし合わせて、憤りを感じているのではないか。

勿論本人は文言もうろ覚えで、それが論語の中の言葉であるとは思ってもおりませんが、遠い昔に祖父母や両親から何らかの場面で聞いたエピソード記憶が、長い年月を経て意味記憶として残っている為に、無意識のうちに様々な場面での判断基準にしている。実はこの「エピソード記憶」が「意味記憶」に変換されて行く、というのが精神教育の重要な所なんですね。

記憶にはエピソード記憶と意味記憶の二つがありますが、エピソード記憶とは「あの時・あの場所で・あんなことがあった」という具体的なエピソードの記憶のこと。意味記憶とは「あの時・あの場所で」という限定を離れて、意味として残る記憶のこと。

人間は自らが遭遇する様々な出来事の中から意味を読み取って行きますが、これらの意味は最初から与えられている訳ではなくて、人生の中で出会う様々な出来事(エピソード)の中から、次第次第に抽出されて行くものです。人間の脳は具体的なエピソードから、次第に意味を編集して行く素晴らしい能力を持っているんですね。

例えば、言葉にしても、それを聞いて受け止めるだけではなく、自分がその言葉をしゃべったり、書いたりと実際に使ってみて、初めて意味が明確になって来る訳です。 「量が質をつくる」と云われますが、経験量が多い程質が高まって行く。読書なんかはその代表的なものではないでしょうか?読書量が思考の質を高めて行くんですよ。読書をしない人はだんだん頭がバカになって行くんです。まともな本を月五冊以上読まないと脳は退化する!シナプスが萎縮してしまうんです。

孔子も云っているではないですか、「吾かって終日食らわず、終夜寝(いね)ず、以て思う。益無し、学ぶに如かざるなり!」と。

まあ人間の脳にこのような能力が備わっていることが分ったのは、MRIが発明されたごく最近になってからのことですが、江戸時代、武士の子がみな論語の素読をやらされたと云うのも、目からは文字・耳からは言葉として入って来たものを、繰り返し自ら声にだして唱えることによって、記号を意味に置き換える有効かつ適切な方法だったんでしょうね。

子供に童話を読んで聞かせると、自分があたかもその主人公になったかのように想像して、物語(エピソード)として記憶する。その後長い年月を経て物語が意味に変換されて意味記憶として残る、というのも同じ原理ですね。

話しがちょっと脇道にそれてしまいましたが、精神支柱という程のものではないけれども、まがりなりにも自分が甲乙の判断をつける際の拠り所として来たものは、遠い昔に祖父母・両親から聞かされ、体験を通して意味化された言葉だったのではないだろうか?一体そのルーツと云うか出典はどこなんだろう?一度探ってみなければ始まりがつかん!と感じてるんですね、多くの人が。まあ中には論語の言葉をてっきり製薬会社のTVコマーシャルのキャッチフレーズだと思っていた人もいるんですよ、

「四十にして惑わずサモン!」と。ネッ?閏間君!?彼は当会に入る迄「四十にして惑わず」と云う言葉を『肉体疲労・滋養強壮』の意味として記憶していた訳ですね。良かったね!ルーツが分って。



3) なぜ今論語か

日本という国の生い立ちを考えた時に、日本人が国家としての自覚を持ち、国家としての体裁を整えたのが聖徳太子の頃からと云われますから、今から1400年程前になります。 603年、聖徳太子はそれまで出自(しゅつじ)によって決まっていた地位や身分・姓(かばね)の制度を廃止して、家柄に関係なく本人の能力・功績に基づく「冠位十二階」を制定します。そして翌604年、わが国初の成文法「憲法十七条」を発布する訳ですが、冠位十二階も憲法十七条もその名称や文言をよく見ると、びっくりすることがあるんですよ。


 
冠位十二階の名称(称号)覚えていますか?昔日本史の授業で習った筈ですが、忘れたでしょう。 こうなっています、大徳-小徳・大仁-小仁・大礼(らい)-小礼・大信-小信・大義-小義・大智-小智。アレッ?これって、儒教で云う五常(五徳)じゃないですか!更に憲法十七条を見ると、冒頭第一条には「和を以て貴しとなす」とあり、第十六条に「民(おおみたから)を使うに時を以てす」とある。これは二つとも論語学而第一にある言葉です。聖徳太子は仏教にも精通した方で憲法十七条の中でも「篤く三宝(仏・法・僧)を敬え」と謳っており、仏教の普及をはかりますが、国家運営のバックボーンに儒教を据えた訳ですね。

君(天皇)-臣(おみ)(官僚・役人)-民(たみ)(人民)という身分制度が明確になるのも聖徳太子の頃からですが、冠位十ニ階は臣(おみ)即ち官僚・役人の秩序を、憲法十七条は官僚・役人への訓戒と服務規律を定めたものですから、リーダーシップの原点は儒教にあり!とした訳です。儒教の祖は孔子であり、その根本経典は論語でありますから、当時の官僚・役人はみな論語を原文で読みこなしていた、と云うよりは、論語を知らなければ相手にされなかったようです。

後ほど詳しく述べますが、論語が日本に伝来したのは285年ですから、それから三百年位経った聖徳太子の頃には、指導者階級の人であれば論語を読むことは常識であったのでしょう。

以来約1400年間、論語は我が国におけるリーダーシップのバイブルであり続けたのです。ですから、たかだか戦後の60年間、地下に埋もれていたとは云え、千年以上に渡って日本精神の原流として滔々と流れてい たものが、そう簡単に枯渇してしまう訳がないのです。ちょっとしたきっかけさえあれば、渾々と涌き出て来るんですね。そのきっかけを提供するのが私達「論語に学ぶ会」の使命なんですよ!!

 

2.日本人と論語のかかわり

 そこで次は、日本人と論語のかかわりについて述べてみたいと思います。


(1)「論語」書の成立と伝来・普及

今更申す迄もなく、論語とは孔子と弟子や要人達との間で交わされた問答や言行を集録した書物でありますが、現在私達が手にすることのできるような形になる迄には、孔子の死後かなりの年月を要しております。論語は、孔子の孫弟子あたりから、それ迄断片的に記録されていたものの集録編纂が始まり、論語の最初の原形ができあがります。

途中、泰の始皇帝の焚書坑儒に遭いますが、前漢の頃には「魯論(ろろん)」(ニ十篇)・「斉論(せいろん)」(二十二篇)・「古論(ころん)」(二十一篇)の三種類の伝来が存在していたようです。その後、後漢末に儒者鄭玄(じょうげん)によって綿密な整理が行なわれ、200年頃に現存する論語の形になった、とされておりますから、現在私達が見ることのできる論語のスタイルになる迄には、孔子の死後700年近くもの歳月を要してる訳ですね。

日本に伝わったのは比較的早く、応神天皇の16年(285年)、百済(くだら)の王仁(わに)博士によって論語十巻と千字文が献上されたとありますから、今から1700年以上も前のことになります。ただ、この頃論語が読まれたのは一部の大宮人(おおみやびと)の間だけだったようで、指導者層(役人)全般に普及してリーダーの必読書になるのは、聖徳太子(574?622年)の頃になってからです。

しかし、まだ一般庶民には普及しませんでした。漢文オンリーでしたからね。仮名が発明されるのは平安時代になってからですから、庶民には無理だったのでしょう。論語が一般庶民に普及し出すのは江戸時代。伊藤仁斎(1625〜1705年)が京都堀川に私塾「古義堂」を開いてからになります。

江戸時代に入りますと、初めの頃は寺院が庶民の子供の教育を担当しておりましたが、中頃になると私設の手習所(てならいどころ)が急速に普及し出し、幕末の頃には都市はおろか、全国の農山村にまで広く寺子屋が普及していたそうですから、武士は勿論のこと、町人・百姓に至る迄、江戸時代の人は論語によって精神のデッサンをやっていた訳ですね。

江戸末期の日本の識字率は60%を超えていたと云われますから驚きです。庶民が文字を読めなかったら「瓦版屋」など商売になりませんものね。因みに、日本に最初の瓦版が登場するのは、大阪夏の陣があった元和元年(1615年)で、大阪夏の陣の様子を伝えるニュース速報のようなものでありました。

当時はまだ文字を読める人が限られていた為、街頭で読みながら売ったので、瓦版を「読売(よみうり)」と云ったそうです。(文字より絵が多かった)読売新聞の社名はここからとったものでしょう。これが江戸末期には半数以上の人が文字を読めるようになっておりましたから、瓦版屋も結構いい商売になったようです。現在インターネットの普及率が60%を超えて、漸くインターネット通販が商売になるようになったのと似ていますね。

江戸時代、日本人の精神文明に決定的なインパクトを与えたものは、何と云っても「武士道」が確立されたことでしょう。武士道は、儒教思想に裏打ちされたものですが、明治の日露戦争当時迄はまだその精神が色濃く残っておりまして、新渡戸稲造が日本精神を欧米人に紹介する為に英文で書いた「武士道」の翻訳本を読んでみますと、武士道とは、大和心と儒教精神をハイブリッドしたものであることが分ります。

いずれに致しましても、応神天皇の時代から現在の明仁(あきひと)天皇に至る1700年もの長い間、日本人に親しまれ、人生のバイブルとされて来た論語でありますから、意識するとせざるとにかかわらず、日本民族のDNAに薫習(くんじゅう) されていると考えて間違いないでしょう。


(2) 支那に於ける論語・日本に於ける論語

皆さんは、孔子の母国であり、儒教の本家である中国では、昔から論語は良く読まれて来たのだろう、と思っているのかも知れませんが、残念ながらそれはとんでもない誤解です。昔から今日に至る迄、中国人の圧倒的大多数は論語など読んだことがありません。エッ!ウソ??という顔をしている方もいるようですが、本当なんです。

何故かと申しますと、50年程前迄は、中国人の90%以上が文盲だったからです。中華人民共和国が成立した1949年に、毛沢東は中国人の識字率を調査しますが、結果を見て腰を抜かしてしまいます。何と識字率が10%未満であることが分ったからです。

つまり、その頃迄、中国人の90%以上は文字が読めなかった。文盲だった。これでは論語どころか、「毛沢東語録」も政府の通達文書も読めません。 だから「識字運動」なんかをやらなければならなかったんですね、中国は。(簡体字となる)更に毛沢東は、孔子教学つまり儒教は封建思想であるとして、徹底的な弾圧を行ないます。論語なんかを読んでいる所を見つかれば、情容赦なくしょっ引かれて処刑されたんですね。 これが有名な「孔老二批判」(次男坊野郎の孔子を糾弾する)というものです。現代版焚書坑儒であります。

中国で論語が解禁になるのは小平が国家軍事員会主席となって改革開放政策を始める1983年以降ですから、中国人が大っぴらに論語を読めるようになって、まだ20年しか経っていないんです。

孔子第75代の直系を名乗る孔祥林(しょうりん)(ペンネーム孔建)が日本語で孔子や論語に関する本を沢山書いておりますが、読んでみて、内容が薄っぺらで、何となく違和感を覚えるのは仕様がないと云えば仕様がない。彼を責めるのは酷でしょう。その理由は、支那に於ける論語と日本に於ける論語の位置付けが全く違っているからなんです。その違いを整理してみると、
 

支那に於ける論語

日本に於ける論語

1)「建前の学」つまり政治の道具。
   
建前論として人民を統治し易くする為に利用した。

1)「本音の学」つまり精神支柱とした。
バックボーンとして、修己治人、リーダーシップのバイブルとした。

2)エリートへの登竜門「科挙」の受験科目。
    四書五経の一つ。

2)人の踏み行なうべき道として「修養」の徳目。最上至極宇宙第一の書。

3)方便としての「虚学」
   
嘘も方便・上に施策あれば下に対策あり。

3)実体としての「実学」。
正直の頭に神宿る・武士に二言なし。

4)表向きのキレイごと。
本音は「自分さえ良ければ、今さえ良ければ」という徹底した利己主義・現実主義。

4)忠恕一貫・真実一路。
己の欲せざる所は人に施すこと勿れ。
己立たんと欲して人を立て、己達せんと
欲して人を達す。

5)道教の民(葬式儒教)
迷信・占い・風水・方位に頼る。後漢の張陵・張角に始まる。「五斗米道」。陰陽五行・神仙道。老荘の都合の良い所だけをツギハギした弥縫思想。努力・忍耐・勤勉はバカのすること。運まかせで要領良く生きるのが人生。

5)儒教の民(葬式仏教)
修身ー斉家ー治国ー平天下。
率先垂範・剋苦勉励。
努力・忍耐・勤勉は美徳。
運にまかせて要領良く生きることを潔しとせず。

いかがですか?つまりこういうことですね、日本では論語の中で語られている孔子の言葉を「光の言霊(ことだま)、すべてこれ金言なり!」と捉えているのに対し、中国では「嘘も方便、すべては表向きのキレイごと!」として捉えているんですね。

中国のエリートは、何千年もずーっとこれでやって来たんですよ。今に始まったことではないんです。だから私は云うんです「中国政府や要人の云うことは90%以上がウソとハッタリ、真に受けるな!本音はその逆だ!!」と。

中国を礼節の国・道徳の国と早とちりして進出した日本の企業を一番悩ませているのが「中国人は契約を守らない。平気でウソをつく。工場の部品を盗み出すことだ」と聞きますが、今更何を寝ボケたことを云ってるの!あの国はウソも方便・上に施策あれば下に対策あり・棟梁君子を是とする国じゃないの!最低でも「十八史略」と「韓非子」くらいは読んでから行けよ!!と云ってやりたくなりますね。

皆さんの中にも中国進出を考えている所があるようですが、こういうことを充分承知した上で「下に対策あれば、こちらに術策あり!」で臨んで下さいね。術策のない所は、中国進出はやめなさい。それでも、どうしても進出しなければならん事情があるのなら、必ず信用のおける台湾人(元日本人)を介してやりなさい。台湾人は大陸人(中国人)の扱いを良く知っていますから。



3)
偉大な思想は時空を超えて進化する

サテ、孔子が生きていた時代には文字はありましたが筆も墨も紙もありませんでしたから、文字で情報を伝えるには、竹簡に箸のようなものの先に漆をつけて書きしるす以外に方法はありませんでした。勿論印刷技術などありませんから、文字情報を残しておくには書写するしかなかった。因みに、筆の発明は戦国時代・墨の発明は前漢時代・紙の発明は後漢時代・木版印刷の発明は唐の時代と云われております。ですから春秋時代、文字で情報を伝えるのは大変なことだったんですね。

そこで孔子はこう云っています、「人能(よ)く道を弘む。道、人を弘むるにあらず」と。思想も情報ですから、「思想は人から人へ、口から口へと伝えられるからこそ弘まるのであって、文字に書かれて、記号としてしまい込んでいたら何にもならない!」ということです。

では、人から人へ、口から口へと地域を超え時代を超えて弘まって行く思想とはどんなものなのでしょうか?非常に難しい所ですが、私なりにまとめてみますと・・・。

まず、民族を超え、地域を超えて広まるには、どこにでも・誰にでも受け入れてもらえるだけの「普遍性」がなければならない。つまり、すべての人間に共通する価値観がある!ということです。次に、世代を超え、時代を超えて広まるには、どの世代いつの時代にも一貫する「不変の真理」がなければならない。つまり変らない本質があると云うこと。三つ目は、風俗や文化が違っても、すべてを包み込む「寛容さ」がなければならない。つまり相生和合させる包容力があると云うこと、ですねその思想に。

「普遍性」と「不変の真理」と「寛容さ」の三つを備えていれば偉大な思想と云えるのか?となりますと、確かに偉大であるには違いありませんが、これだけでは進化しないんです。「普遍性」と「不変の真理」と「寛容さ」を鼎の中でグツグツ煮ても、変質はしますが変容しない、つまり進化しません。もう一つ「触媒」が要るんです。

喩えば、水と小豆と砂糖を鍋に入れてグツグツ煮ても、お汁粉にはなりますが、羊羹にはなりません。汁粉を羊羹に変容させるには「寒天」という触媒が必要です。寒天はそれ自体無色透明・無味無臭ですが、すべてを融合して変容させる力を持っている。これをカタライズ(catalyze)「触媒作用」と云います。

思想に於ける触媒作用を何と云うか?何年か前の合同例会で云いましたけれども、忘れたでしょう?すっかり。「鼎新力(ていしんりょく)」つまり、鼎の中でグツグツ煮込んで、全く新たなものを生み出す力、テイシンリョクと云うんですね。思い出したでしょう?鼎新力とは、「中庸」のことです。つまり、思想に於いて触媒の如き変容作用を起こすもの、これが中庸なんですね。

「論語開眼」でも云ったでしょう?「中庸とは、Aの良い所とBの良い所を合わせ持ち、さらにそれを統一止揚して一層進化させた、ニュートラルなハイブリッド進化論である!」と。忘れた人は「論語開眼」の講義録をご覧になって下さい。進化し続ける偉大な思想とはいかなるものか?図にしてみると、



たとえ2500年前に説かれた古い思想であっても、過去のみならず現代でも立派に通用する思想、つまり「為になって後に立ち、教訓として有益で実生活に於いて有用な思想」と云ったら、孔子教学即ち儒教思想をおいて他にないでしょう!?

論語のように、今なお進化し続けているような書物は他にないでしょう。仏教は親鸞・日蓮・道元が出た鎌倉時代・13世紀で思想自体の進化は止まっている。キリスト教も、トマスアクィナスが「神学大全」を著した13世紀でストップです。大体宗教戦争を起こすような思想は、寛容さがないってことでしょう?思想自体が進化の要素を欠いているんですよ。

当会も今年で足掛け12年になりますが、古い人は三回も論語をやっている。いかがですか?一回目と二回目では、意味の捉え方が違って来ませんでしたか?二回目と三回目では、今迄気にも止めなかったフレーズがバジ!と目に飛び込んで来ませんでしたか?その都度その都度新鮮さを覚えませんでしたか!?

それは、あなたの精神が進化したのみならず論語自体が進化し続けているからなんです。あなたが進化しているのに、論語が進化していなかったら「もういい!分った!!」となるんですよ。

論語を甘く見ちゃいけないよ!論語と云う書物は「強く叩けば強く鳴り、弱く叩けば弱く鳴る。高く叩けば高く鳴り、低く叩けば低く鳴る。深く叩けば深く鳴り、浅く叩けば浅く鳴る。」つまり、あなたの精神的進化度に応じてしか鳴り響いてくれない魔力を持っているんですからね。叩かなければ何も鳴らない。しかし叩けば必ず鳴ってくれる。今のあなたに聞こえる範囲で。

マタイによる福音書第七章でイエスは「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は開かるるなり」と述べておりますが、論語とはそういう書物なんですね。一回や二回読んだからと云って「いいや!もう分った!!」などと云える代物ではないんですよ、論語は!自分自身の精神レベルが進化しているかどうかを知りたければ、論語を開いてみることです。


 
「前に読んだ時は気が付かなかったけれども、孔子はこいうことも云っていたんだ!?」と感じられる所があれば、マル。合格。「何度読んでも変りばえしないな!もういいや!!」と感じたら、バツ。あなた自身が変りばえしていない証拠なんですよ。まあ云ってみれば、自分自身の精神の練れ具合を計る「リトマス試験紙」のようなものですな、論語は!だから一生手離せないんですよ。

 

3.君よ、論語の語り部たれ


(1) 教うるは学ぶの半ばなり

書経に「教うるは学ぶの半ばなり」という言葉があります。人に教えるということは、実は半分は自分自身が学んでいることなんだ、という意味です。講義を聴いて「なる程そうか!」と納得するのも確かに学んでいることには違いありませんが、学びとしてはまだ浅い、本物ではないんですね。

教えるというと大げさに聞こえますから、人前で語る、話題にすると捉え直していいと思いますが、聴いたことを内にしまっておくだけでは理解が深まらないんです。自分の言葉で人前でしゃべることによって、一層意味が鮮明になる、理解が深まるんですね。どういうことかと申しますと、先程脳の話しをしましたけれども、何かをしゃべろうとする時は、相手に意味が通じるように言葉を取捨選択しなければなりません。

言葉を選ぶ時、脳の中では猛烈なキャッチボールが行なわれておりまして、それ迄脳内にバラバラに放置されていた情報が、シナプスの結合によって意味を持つ言語として整理されます。ここが人間の脳みそのすごい所なんですね。

私達は、自分が考えて言葉を選んでいるように錯覚しておりますが、実は脳自体が勝手に整理整頓し取捨選択をやっている訳です。そして意味を持つ言語として紡ぎ出される。しゃべろう!と思った瞬間に、脳内で急速にこう云う作用が起きる訳で、人にしゃべろうと思わなければこの作用は起きません。バラバラに放置されたまま、二十年位かかって、ゆっくりと意味記憶に変換されるのを待つしかありません。「そうだったのか!」と気付いた時には棺桶の中であります。実際にしゃべらなくても、しゃべろう!と思っただけで瞬時に起きてしまうんですよ、こういうことが。不思議ですね、人間の脳は。

皆さんの中には、私にガツンと云われたことのある人が何人かいるでしょう?「十年も論語をやって来て、どうして人に論語の話しをしないんだ?」と云いますと、「まだ充分習得してもいないのに、人様に教えられるような柄じゃありません!」と答えますので、「何を云ってるの!教えるんじゃない、語るんだよ、あなたの人生の金言として!人の為にしゃべるんじゃない、自分の為にしゃべるんだよ!教うるは学ぶの半ばなりと云うではないか!!」と。こう云われた人、三〜四人いるんじゃないの!?

学而第一にある「曽子の三省(さんせい)症候群」に犯されているんだね、 「習わざるを伝うるか」に。完全に習得してから伝えようなどと考えていたら、一生かかったってできない、百年かかってもできません。「習得中間報告」のつもりで語ればいいんです。中間報告ならば、誰にだってできるでしょう。最終報告じゃないんだから。



2) 論語を学ぶのではない。論語に学ぶのだ!

皆さんに何度も云っておりますが、当会は「論語を学ぶ会」ではありません。「論語に学ぶ会」であります。
 「を」と「に」の助詞たった一文字の違いでしかありませんが、意味は全く違います。 「を」とした場合には二つの意味があります。

一つは、キリスト教の聖書やイスラム教のコーラン、仏教の経文のように、信仰の「経典(きょうてん)」として論語を学ぶという意味。今一つは、実証できる根拠を儒教古典の中に求めて、一言一句を解釈しようとする考証的解釈学、つまり「経学(けいがく)」として論語を学ぶという意味。当会はそのどちらでもありません。

「に」とした場合、勿論考証的解釈は重視しますが、それだけには止まりません。解釈の後に「それで?」が入ります。「それでお前はどう思う?」、「それでお前はどうするの?」、「それでお前はどう云うの?」という、身・口・意の実践を含めた所の、人間としての有り様、つまり「人としてのあるべき姿」を論語に学ぶということです。まあ、私達のやっている論語は「人生学」としての論語、「人間学」としての論語と云って良いかも知れませんね。

ですから、私が皆さんに「もっと論語の話しを人にしてやりなさい!」と云う時の真意は「経典」として論語を語れ!とか、「経学」として論語を語れ!と云っているのではないのです。 「人生学」として「人間学」として、あなたが「かくありたい!」と感じた所を語りなさい!!と云っているんです。

「経学」として論語をきちんと講じられる人は、今は世界中で白川静位のものでしょう。私達には無理です。 又、孔子を神聖不可侵な存在として、論語を「経典」の如く無謬化してしまうのも間違いです。

思うように行かず・人の何倍も苦労し・失敗もやらかし・やせ我慢もし・14年間も放浪生活を送ったけれども、天を怨むこともなく・人を咎めることもなく・共に酒を飲み・共に歌を唄い、己に厳しく人にやさしく立派に生きた偉大な人物がいた。人類の大先輩にこういう人物がいたことを、あなたは誇りに思いませんか?あこがれませんか?近づきたいと思いませんか?かくありありたい!と思いませんか?孔子は楽して生きた人ではない、大変難儀をしながら必死に生きた人なんです!死に物狂いで懸命に生きた人なんですよ!!

幸いにも、こうして生きた人の言行録が、先人の手によって編纂され、今こうして論語として残っている。ありがたいですねえ、「孔子様ありがとう!論語を残してくれた先人の皆さんありがとう!!」と思わず云いたくなりますね。「孔子の言葉は光の言霊(ことだま)、すべてはこれ金言の塊なり!論語に学ぶ者は、みな孔子の直弟子なり!十哲は朋友なり!!」こう考えていい。

だから私は何度でも云う「かくあるべし!」と高飛車で語るな「かくありたい!」と謙虚に語れ!!と。ごちそうを一人占めするな!多くの人と分かち合って食べなさい!福を分かち合いなさい!!ということです。当会のホームページもそのつもりでやっているのですよ、「多くの人と御馳走を分け合って食べよう!」と。

ホームページを立ち上げるに当って、一部に反対している人がいた、と、最近になって知りましたが、今の話しでご理解・賛同していただけるのではないかと思います。当会のホームページを半年で1500人もの方々がのぞいて下さっている。勿論皆さんのアクセスも入れての数ですが、本日ご出席の方は40人ちょっとですかね。

とすると、半年で1500人÷40人で約37人、37人÷6ヶ月で約6人。一人当り一ヶ月に6人ずつリクルートして来て下さい!などと云ったら「冗談じゃない!ヤーメタ!!」となるでしょうが?新興宗教やってる訳じゃないんだから。やれる範囲でいいから、御馳走を分かち合って食べましょうよ!「分福」福を分かち合いましょうよ!!



(3) 論語読みの論語知らずでいいんだよ

「公冶長論語に須磨源氏」と云う俗言があります。公冶長は皆さんご承知の通り、論語全二十篇ある中の第五篇、
須磨源氏は源氏物語全五十四帖(じょう)ある中の第十二帖ですが、初めは全編やろう!!と意気込んではみるものの、論語ならば公冶長第五で、源氏物語ならば須磨の帖で息切れしてしまう、まあ三日坊主を揶揄した言葉です。

当会の会員はこれでは困ります。やるならば学而第一〜堯日第二十迄の全編をきっちりやってもらいます。つまみ食いは許しません。「仮名論語の読み下し文には句読点が振ってあるし、講義資料には通釈文も解説もあるんだから、後で読めば分る。懇親会だけ欠かさず出席すればいい!」などと、ものすごいことを云う人が時たまありますが、まあそれでも悪いことはないけれど、学ぶべき時にはきちんと学び、懇親会ではよく遊ぶ。「良く学び良く遊ぶ」とした方がお酒も一味違うんではないでしょうか。あとで読めば分るとうそぶいている人に「じゃあここを読んでごらん?」 と差しますと、ゲツバタするのは仕方がないにしても「弁慶がナ、ギナタを持ってサ・・・」の如く、音節も抑揚もシッチャカメッチャカに読んでしまいます。

特に人名がフルネームで出て来たりすると、どこ迄が姓でどこからが名か皆目分らない。「君の今の読み方は、佐藤利男という名前を砂糖と塩と云っているのと同じだよ!」と相成る。論語は、読み下し文をちゃんと声を出して読むことが重要なんです。黙読しただけでは言葉の持つ響きが伝わって来ないんです。何故ならば、孔子の言葉は光の言霊・金言の塊ですから。

だからいつも云うんですよ「間違ってもいいから、お腹の底から声を出して読みなさい!孔子の力強い波動が伝わって来るから!!」と。

先程も申しましたように、論語は今なお進化し続けておりますから、同じ章句でも昨年読んだ感じと今読んだ感じでは、響きが違って当然なんです。来年も同じ所を読むと又響きが違うでしょう。つまり、「論語に学ぶ」者にとっては、死ぬ迄「論語読みの論語知らず」でいいんです。イヤ、活学しようとすればする程「論語読みの論語知らず」になるものなんです。「経学」として論語を学ぶ人は、研究結果として論語を語れば良いでしょう。死学をやっているんですから。

私達はそうではありません。私達は活学をやっているんですから、研究結果を語るんではなくて「習得中間報告」として「かくありたい!」と語って欲しいんです、あなたの身近な人達に。論語を!「人様に語れるような柄でありません!」などと云って逃げ回るのはもうやめて下さい。臆病者と云うんです、こういうのは。「私はかくありたい!」と語るのに、どうして遠慮がいるんですか?恥かしがる必要があるんですか!?子路だって何度も語っているではないですか、「俺はかくありたいと!」と。

 
「経学」を語ろうとするから、柄にもないと思うんです。経学など、私達には語れません。白川先生だけです。それを語れるのは!

しかし、「人間学・人生学」としてなら誰でも語れます、「かくありたい!」と。誰もが人間をやっているし、自分なりの人生を生きているんですから。「吾等は経学として論語を学ぶ者に非ず。人間学として、人生学として、人のあるべき姿を論語に学ぶ者なり!」。どうかこのことを忘れず、大いに論語を語って下さい。

以上で本日の講話を終ります。