H18/1 「論語開眼パート3」

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平成18年度新春合同例会

演題 『論語開眼パート3』   為になって役に立つ論語

・・・パート1・パート2は「活学編」、今回から愈々「活用編」・・・・

平成18年1月21日(土) 於:ホテル新潟 
記録・佐々木塾・伊藤民子 


  講義内容      

  1)人生の成功・不成功を分かつものとは?
    
(順境必ずしも幸せに非ず、逆境必ずしも不幸せに非ず)

  2)こんな時、あなたはどうする? (活用のいろんなケースを考えてみよう)

  3)「笹団子問答」 (君は団子を食うのか?笹を食うのか?)

  4)あなたはどんな土産を持ってあの世に帰るのか?
    
(使命を果たして帰れ!)
 


1)人生の成功・不成功を分かつものとは?
  (順境必ずしも幸せに非ず、逆境必ずしも不幸せに非ず)

本日の講話のタイトル「論語開眼」を見て、又かあ〜!と思った方がおられるかも知れませんが、どうかご安心ください。

今回の論語開眼は、今までのものと一味も二味も違います。そうですね〜、今までのパート1・パート2を基礎編・活学編とすれば、今日お話するパート3は応用編・活用編と思っていただいていいでしょう。

当会設立の理念は「学真行道」・真理を学び道を行ずる、というものでありました。では一体何に真理を学ぶのか?と云えば、仏典でも聖書でも良いけれど、我々は一つ論語に学んでみようではないか!となりまして、会の名前を「論語に学ぶ会」とした訳であります。論語に真理を学び道を行ずる、つまり、学んだことを実践してみよう!日常に活かしてみよう!人生に活用してみよう!という人たちが集っているのが、我等「論語に学ぶ会」なんですね。

ただ今日こうして振り返ってみますと、「論語学ぶ」というよりも「論語学ぶ」ことに汲々としていた13年間だったのではないだろうか?活かし用いる所迄行っていなかったのではないだろうか?という気も致します。当会のモットーは「為になって役に立つ」ということなのに、為にはなったが役に立つ所迄行っていないのではないだろうか?

「学真行道」とは、言葉を換えれば王陽明の「知行合一」と同じ意味でありますが、知と行が同時一源のものとならずに、朱子の「先知(せんち)後行(こうこう)」・まず知ることに汲々として、後行(後に行う)まで手が回らなかったのではないだろうか・・・・・?

昨年の暮れからずーっとこんなことを考えておりまして、フッと頭に浮かんだのが、今年の年賀状に選んだ、「之を如何(いかん)、之を如何と日(い)わざる者は、吾、之を如何ともするなきのみ」(衛霊公第十五)なる孔子の言葉でありました。

何事も問題意識を持ち→仮説を立てて→実践してみる。そこからすべてが始まる訳です。思っているだけ、考えているだけでは、何も始まりませんし、何も分かりません。ましてや、思ってもみず、考えてみようともしない、即ち、問題意識も持たず、仮説を立ててみようともせず、万事行き当たりばったりであったら、わざわざ生まれてくる必要もなかったでしょう。せっかく脳ミソをもらって生まれて来たのですからね。

思い(問題意識)→語り(仮説を立てる)→為す(実践する)、つまり、身・口・意の三つがワンセットになって、初めて自分を取り巻く世界が動き出し、動く過程の中から「ああそうだったのか」と分かって来るんですね。これが本当の学びなのではないでしょうか。

「艱難汝を玉にす」という諺があるけれども、実践の過程で、滑ったり・転んだり・泥を被ったり・煮え湯を飲まされたりと、様々な困難に遭遇してみて、初めて魂が磨かれるんです、「そうだったのか!」と分かってくるんです。だから、困難から逃れたらいかんのです! 生まれる前に自分が立てて来たシナリオ通りにあなたの人生ドラマが今展開されているのですから。

殊に、今世ログ500の「仁者の壁」をブチ破って、菩薩の意識レベルに挑戦する目標を立てて来た人は相当苛烈な境遇を選んで出て来るようです。残念ながらオギャーと生まれた途端にその記憶を失ってしまいますから、みんな忘れておりますが、これ迄の人生を振り返ってみて、或いは今現在の自分の置かれた境遇を鑑みて、孟子の云う次の文章にピンと来る所があれば、あなたの人生ドラマは、自分自身が立てたシナリオであることに気が付くでしょう。

曰く、「天の将に大任を是の人に降(くだ)さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、その筋肉を労せしめ、其の体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、行なう所其の為さんとする所に払乱せしむ。心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を増益せしむる所以なり。人恒に過ちて然る後に能く改め、心に困(くる)しみ、慮りに横たわって、而る後に作(おこ)り、色に徴(あらわ)れ、声に発して而る後に喩(さと)る」と。

さあどうですか?ピンと来るものがありましたか?

あなたに対して冷たく当たる人・殊更意地悪をする人・足を引っ張る人・邪魔ばかりする人・迷惑ばかりかける人etc.。あなたにとって、全く意に染まないかのように思える人が、実は、あなたの魂を鍛える為に、わざわざ悪役・憎まれ役を買って出てくれた人かも知れないんですよ!? 分かっているんですか!?

だから、どんな境遇に遭おうとも、「天を怨みず、人を咎めず!」、人のせいにしたり社会のせいにしたりせず、あるがままを一旦すべて受け入れてみる。受け入れれば新たな道が見えて来る。受け入れず、逃げたり撥ねつけたりするものだから、後になって余計重くのしかかって来るんですね。これでもか?これでもか?と。

ここでどうしても皆さんに確認しておかねばならんことは、順境必ずしも幸せならず、逆境必ずしも不幸せならず!ということです。

普通は、順境(恵まれた境遇)イコール幸せ、逆境(苦労の多い境遇)イコール不幸せ、と早合点して人生の成功不成功、勝ち組負け組みを判断しているのではないでしょうか?

表面(おもてづら)だけ見ればそのように見えるかも知れませんが、はっきり云ってこれは間違いです。肉の感官から来る錯覚です。

  ・孔子74年の生涯は果たして順風満帆だったでしょうか?
  ・釈迦80年の生涯は果たして順風満帆だったでしょうか?
  ・イエス33年の生涯は果たして順風満帆だったでしょうか?

そうじゃないでしょう? 障害の連続、逆境の連続でしょ!? では、彼らの人生は失敗だったのでしょうか? 負け組みだったのでしょうか?そんなことはないでしょう!!

もしそうだとしたら、人類は2000年も2500年も、人生の敗北者が説いた教えを有難がって学んで来たことになる。我々は、人生に落伍した人の教えを今学んでいることになる。彼らは、人生に負けたのでも失敗したのでもありません! 逆境に負けなかっただけなんです。逆境をものともせず、終生真理を説き続け、人類を導き、使命を全うした人生の勝利者、大成功者なんです!!

つまり、人生の成功・不成功を測る物指しは、境遇の良し悪しでも、寿命の長短でも、財産の多寡でも、勲章の数でも、葬式の花輪の数でも、立派な戒名でもなく、唯一生まれる前に立ててきた今世の人生計画、即ち、使命を全うしたかどうか!?にかかっているんですね。釈迦や孔子やイエスのような大聖人も、我々のような凡人も、ジャングルの未開人も、北朝鮮の飢餓人民も!!

ただ、こんなことを云うと、すぐ「そうか、偉大な人物程厳しい境遇を選ぶのか!?」と早とちりして、ならば自分も!とばかりに受難を礼賛してみたり、極端な禁欲主義に走ったりするあわて者がおりますが、そうではないんです。

どんな境遇に遭おうとも、「将(おく)らず迎えず、応じて蔵せず」・取り越し苦労はしなさんな、持ち越し苦労もしなさんな。来るものは拒まず、去るものは追わず、ケセラセラ!

イエスは云った、「だから、何を食らい、何を飲み、何を着んとて思い煩うな。明日を思い煩うな。明日は明日みずからが思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり」と。ジタバタせずに、今日一日を精一杯生きなさい!!ということなんですね、我々凡人は。

さて、その孔子ですが、弟子を取り始めるのが三十過ぎてからですから、論語にはそれ以降74歳までの約44年間に語られた言葉が残されている。

51歳〜54歳までの四年間は、司寇−大司寇と出世して、多少境遇にも恵まれたようですが、それ以外は逆境の連続でした。ですから、論語の中で語られている孔子の言葉の大半は、逆境の中から紡ぎ出された珠玉のようなものなんですね。そういう意味からすると、論語は「逆境に遭遇したときの手引書」と云うか、迷い悩んだ時の「人生ガイドブック」と言って良いでしょう。

雍也第六で孔子は「能く近く譬(たと)えを取る。仁の方(みち)と謂(い)うべきのみ」と述べておりますが、論語の一言一言を、はるか昔の人が述べた他人事だと思わずに、自分の日常の身近なことに置き換えて読んでみれば、必ずどこかにヒントがある。他人事として学ぶか?己に置き換えて学ぶか?これが論語を学ぶか、論語学ぶかの分岐点であり、死学で終わるか? 活学・活用に至るか? の分水嶺である!と言って良いでしょう。

論語の長年の愛読者でも、普通は活学にすら至っていないのが現状ですが、当会は活用する段階に漸く到達した訳であります。

つまりこういうことなんです。

  @ 論語を余所事・他人事の「古典」として学ぶ・・・・・・・・・・・死学
  A 論語を現代事象に当てはめ「社会科学」として学ぶ・・・・・活学
  B 論語を己の事に置き換えて「人生哲学」として学ぶ・・・・・・活用

学び方に三つあるということなんですね。

孔子の母国中国では、儒学が科挙の受験科目になって以来、論語は古典としてだけの死学になってしまいましたが、我が国に於いては、伊藤仁斎が「最上至極宇宙第一之書」と絶賛した如く、一貫して社会科学・人生哲学として活学・活用して来た伝統がある訳です。どうか皆さんも、論語を単なる古典として学ぶのではなく、身の回りのことに当てはめて、自分のことに置き換えて、活学・活用して頂きたい。

活学すると顔の相が変わってきます。活用すると迫力が違ってきます。後光がさして来ます。見る人が見ればちゃんと分かります。

そこで次は、ならば一体どんな活用の仕方があるのか?
「こんな時、あなたはどうする?」をいくつかの事例を挙げて一緒に考えてみましょう。


2)こんな時、あなたはどうする? (活用のいろんなケースを考えてみよう)

〔 ケースその1 〕

ある大手の回転寿司チェーンに、厚焼き玉子のスライスを納入している食品メーカーA社の例。

この回転寿司チェーンは、コストダウンを計るために、納入価格を半値にしろ! さもなくば取引を打ち切る!! と言ってきました。A社にとっては、全売り上げの15%を占める最大の取引先であり、取引を打ち切られたら経営上大損失をこうむる。

しかし、価格を半値にすれば、丁度材料原価の値段になって、人件費も包材費も運賃も出ない。但し、これをクリアーする方法が一つだけあった。それは賞味期限切れの冷凍液卵を使うことである。賞味期限を一日でも過ぎれば、最早それは商品ではなく、産業廃棄物となって、タダ同然となる。これを集めて使えば客の要望に応じられるが、これは食品衛生法違反、つまり違法行為である。

A社の社長はこの事情を説明し、「それでも良いか?」と確認すると、「腐っている訳ではないのだからコストダウンになればそれで良い!」となった。普段から、安心・安全・健康をモットーとしてきたA社の社長は悩んだ末、電話を掛けてきた。

〈 論語の活用 〉 そこで私は、論語の孔子の言葉から二本を選んでファックスした。

一は、子路第十三192頁より
    「速やかならんことを欲する勿れ。小利を見れば即ち大事成らず」

二は、衛霊公第十五233頁より
    「人にして遠き慮り無ければ、必ず近き憂い有り」
    (勿論二本とも通釈を付けて)

 さっそく社長より電話があり、「よく分かりました。ヘタをすると食品業界の“姉歯”になるところでした。先方にははっきり断ります!」と連絡して来た。

 〈 結論 〉
もしA社が回転寿司チェーンの指示に従い、賞味期限切れの原料を使って目先の利益を優先すれば、安心・安全・健康を誇りにしてきた社員の信頼を裏切ることになり、たちまち内部告発されて、A社は潰れていたであろうし、この寿司チェーンも消費者の信用を失って潰れただろう。近年様々な企業の不祥事が発覚するのは、そのほとんどが内部告発である。社員や消費者の信頼を裏切ったり、信用を失ったりする行為は、たとえそれが利益につながろうにも、絶対にやってはいけないし、やらせてもいけない!

 損得よりも善悪を優先せよ!! ということです。

後日談ではあるが、A社は一旦取引を打ち切られたが、一ヶ月ほどして先方から元の値段で良いから取引を再開してくれと懇願され、又取引が始まった。どこのメーカーにも、こんなムチャな注文は断られたのでしょう。

名前は出しませんが、この回転寿司チェーンは早晩潰れるでしょう。こんなことを平気でやっているようでは。

〔 ケースその2 〕

Bさんは、おとなしい性格で正直な人なのだが、人に何かものを頼まれると「できません!」・「できません!」と断るのが口癖で、本人はそれを謙譲の美徳と勘違いして半世紀生きてきた。

ある時、「あなたは自分の人生を合格と思うかね?」と問うと、「勿論です!悪いことは何もやっていないし、人様に迷惑をかけるようなことはやっていませんから!」と言う。

「それではまだ50点で不合格だな」と申しますと、「どうしてですか?論語に“己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ”とあるじゃないですか。私は自分が嫌だと思うことを人に仕向けた覚えはありません! 何で不合格なんですか!?」となって、ここで・・・。

 〈 論語の活用 〉
雍也第六79頁より、「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」(自分がこうありたい、ああなりたいと思うことは、まず人にやってあげなさい!)

同じことをイエスはこう云った、「すべて人にせられんと思うことは、人にも亦その如くせよ!」(マタイによる福音書第7章)と。

こう云った途端Bさんはピンと来たのでしょう、「そう云われれば、自ら進んで人の役に立とう!人の為になることをしよう!とはしませんでした。そういうことは出しゃばりだと思っていたんですが、そうではなかったんですね!?」と相成った。 

 〈 結論 〉
私たちは「人様の迷惑になるようなことをやってはならん!」と親に教わって来ましたから、Bさんのように考えている人は大勢おりますが、悪いことさえしなければいい、人に迷惑をかけなければそれで良いと云うのならば、わざわざ生まれて来る必要など無いんです。これでは50点、不合格なんです。学校の試験でも60点でやっと合格ですから、50点では当然不合格でしょう。

 生まれた以上は、一つでも良いから、何か世の中の役に立つこと、人の為になることを自ら進んでやる、これでやっと60点、70点が貰える訳なんですね、加点されて。加点法の人生が0点ならば、100点満点のトータル人生に於いては落第ということですね。

 ただ実際には、減点法で一点のマイナスも無い人、一つの罪も犯さずに生きられる人などいたためしはありません。釈迦・孔子・イエスと雖もです。魚でも肉でも、みな殺生したものを頂いている訳でしょう? そうしなければ生きられないでしょう人間は!だから食事の前には「いただきます!」食事が終わったら「ごちそうさま!」と手を合わせるでしょう?命を頂いていることに対する感謝の念をこめて。

 人間はじっとしているだけで一日に1500Kcalを使うそうですから、その分他の命を摂取しなければならない。ですから、この頂いた分以上を世の中にお返ししなければ合格点はもらえない訳です。直接人を傷つけたり、騙したりしなくても、生きる為に食べるだけで既に20〜30点は減点されているのではないですか? 肥満体の人は50点全部使い果たしているんじゃないの?

 因みにBさんが当会会員であることは皆さんもうお分かりかと思いますが、この方はこの一年で見違える程いい顔の相になりましたね。皆さんも見れば分かりますよ。エッ?これがあの人!?とびっくりする筈ですから。この人は今の気持ちで後2〜3年もすれば、間違いなくキネシオロジーで100ポイントジャンプアップして声聞か縁覚になれるでしょう。ひょっとすると再婚話しが来て、玉の輿に乗れるかもしれない。こんないい女を世の中が放っておきませんよ!


〔 ケースその3 〕

古くからの友人Cさんのお嬢さん(30歳)はある代議士の紹介で、42歳のキャリア官僚と見合いをし、交際が始まった。交際も順調に進み結納を交わすことになり半年後に結婚することと相成った。

身上書を見ても申し分なく、性格もまじめな男性であるが、一つだけひっかかることは、このような立派な男性がどうして42歳まで独身でいたか?ということであったが、紹介者が普段から尊敬している代議士でもあるし、何よりも本人同士が良ければそれで良し!と気にしないでいた。

しばらくすると、先方の父親から、入籍だけでも早く済ませておいたらどうか?と再三電話がかかって来る。急ぐこともあるまいと、その都度曖昧な返事をしていたのだが、結婚式の一ヶ月前になって、突然先方から婚姻届がとどき、署名捺印して至急送り返してくれと言ってきたが、Cさんは一週間ほど放っておいた。すると先方から「まだですか?」と催促の電話がかかって来た。何でそんなに入籍入籍と急ぐのだろう?と不振に思ったCさんは、これはきっと何かあるに違いない!と直感して、家族に内緒で、興信所に相手の男性の身の上調査を依頼した。

二週間後に調査報告があり、Cさんは愕然とする。経歴にはまったく詐称は無いのだが、今までに二度婚約し、二度とも破談になっている。破談の理由は、この男性の「酒乱」とある。酒乱と言えば、普段なんともないが、酒を飲むと発狂する精神病で、治療法も治療薬も無く、現代医学では手の付けられない病気である。普通の人にとっては、酒は天の美禄、百薬の長かもしれないが、酒乱の人にとっては猛毒である。唯一の予防法は、酒を一切口にしない、させないということしかない。つまり、完全に酒を断つ以外に方法はない。ところが、酒乱の人ほど酒が好きと来ている。

思い悩んだCさんはこのことを奥さんに話すと、奥さんは即座に「この話し、止めにしましょう!」とあっさり一言。こういう時の女の肝っ玉は据わっていますね。お嬢さんを呼んで、デートの時の様子を聞くと、このお嬢さんはワインが大好きで、食事のときにはいつもワインを注文したそうですが、彼氏はアルコールを一度も口にしたことがないので、てっきり下戸かと思っていたとのこと。

婚約解消に異議なし!となったのは良いが、結婚式まであと一週間しかない。会場は帝国ホテル。招待客は総勢200名(先方150、当方50)。先方の来賓の中には、政治家や、通産省次官や局長など錚々たるメンバーが名を連ねている。仲介してくれた代議士夫妻が媒酌人を努める事になっていたので、早速電話をすると、「う〜ん、そいつはこまったな!あとは先方と話し合って宜しくやってくれ!」との返事。事情を先方に話すと案外話の分かる人で、「隠していて申し訳なかった。そちらがそう云うのであれば仕方がありません。ホテルはこちらからキャンセルを入れます。

しかし、既に決まっている招待客には、何と云って断ったらいいでしょうか?だれも傷つけず、誰の顔もつぶさないで皆さんに納得していただけるような、いい断り方はないでしょうか?」と逆に意見を求められた。先方の父親も官僚OBで、非常に面子を重んじられる方だったんですね。だれも傷つけず、誰の顔もつぶさない妙案?思い余ってCさんはその晩私に電話を掛けてきた。「何?本当か!?こまったなあ〜。明日の朝まで一晩時間をくれ!」と云って切りました。そのとき分かったのは、招待客の中に、新郎新婦共通の友人・知人は一人もいない、ということでした。

サア、ここから先は皆さんも一緒に考えてください。

ここで休憩を入れますが、休憩時間を利用して、クラスごとに集まって解決策を考えて下さい。休憩後、それぞれ代表者から発表してもらいます。私が、ヒントを得たのは、子路第十三129頁の「葉公、孔子に語りて曰く、吾が党に直躬なる者あり、其の父、羊を盗みて、子、之を証す。孔子曰く、吾が党の直き者は是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中(うち)にあり」という孔子の言葉でした。つまり、馬鹿正直過ぎるのは考えもの。将来のことを慮って、かばえる所はかばってやる。嘘にも、ついていい嘘とついて悪い嘘がある。相手を傷つけない為の嘘であれば、時には嘘をつくことも必要!と云うことです。

では10分間休憩を入れます。

サテ、誰も傷つけず、誰の顔もつぶさない妙案が見つかりましたかな?このケースでのポイントは、招待客の中に、新郎新婦共通の友人・知人は一人もいないと云うこと、つまり、新郎の酒乱が理由で破談になったことを知っているのは、新郎・新婦、双方の両親、媒酌人夫婦の主催者側8名と部外者の私だけ。双方の親族もこのことは知らない・・・・ということですが。

それでは順番に発表してもらいましょう。

  まずは「山形塾」から・・・・「○・・・△・・□・・・◇・・・・!」
 → 「三期・藤田塾」・・・・・「△・・・□・・◇・・・○・・・・!」
 → 「二期・赤羽塾」・・・・・「□・・・◇・・○・・・△・・・・!」
 → 「一期・佐々木塾」・・・「◇・・・○・・△・・ □・・・・!」

 翌朝私がCさんに告げた答えは、次の五項目でした。

 1 結婚式は延期することになった。(中止とは云わない)
 2 理由は、相手方(新郎にとっては新婦が、新婦にとっては新郎が)事故に遭って
   緊急入院してしまったから。
 3 命に別状はないが、怪我の状態が極めて重く、退院しても長期の
   リハビリが必要。
 4 一年くらい様子を見ないと何とも云えないので、今の所結婚式の
   目処は立っていない。
 5 ご迷惑をおかけして大変申し訳ない!

以上の五項目を全員に本日中に連絡する。これならば誰を傷つけることもなく、誰の顔もつぶしません。そこでCさんから一つ質問があった、「実際には延期ではなくて破談になったのだから、また娘の婿探しをしなければならんが、変に思われませんかねえ?」と。そこで私は「大丈夫! 但し、半年間はあなたもお嬢さんも婿探しに動かないこと。半年経ったら動き出して良い。大体皆忘れているし、前の人はどうなったの?と聞かれたら、植物状態で再起不能と言っても良いし、亡くなったと言ってもよい。同情されこそすれ、腹を立てる人は誰もいない。安心しなさい!半年間の辛抱!!」と答えた。

これは6年程前の話ですが、その後1年くらいしてこのお嬢さんは地元の男性に嫁ぎ、今は一男一女の母になっています。


〔 ケースその4 〕

 次はちょっと深刻な話。

Dさんは、結婚してから夫が酒乱であることが分かり、別れようと思ったが既に赤ん坊を身篭っていたため、我慢することにした。ずるずると夫婦生活を続けるうちに、二人目三人目と子どもが生まれ、そのうち直るだろう、そのうち直るだろうと微かな望みを抱いて来たが、酒を飲むと殴る蹴るの暴行は増々ひどくなる。とうとう堪忍袋の緒が切れて、子供達も皆片付いたことだからと離婚を決意した。子供達を呼んで事情を話すと息子二人は同意したが、娘が「私たちを見捨てる気か!?」と言ってきかない。思い余ったDさんは、どうしてよいか分からなくなって、とうとう寝込んでしまった。

サア皆さん、こういう相談を受けたら、あなたはどうアドバイスしますか?

@亭主を断酒会にでも入れて、我慢しながらこのまま夫婦生活を続けなさい!と言うか?
A思い切って別れなさい!と言うか?
Bそれとも、こういう道もあるよ!と、第三の道を示してやるか?

Dさんのケースは現在進行形で、まだ決着がついておりませんので、私がどんなアドバイスをしたかは、ここで申し上げる訳には行きませんが、ヒントだけ言っておきます。

 〈 論語の活用 〉
まず、陽貨第十七278頁より、「女子と小人とは養い難しとなす。これを近づくれば則ち不遜なり。これを遠ざくれば則ち怨む」。相手に過度な期待を抱かず、こんなもんか!?しょうがないか!?とあきらめて受け入れる。

次に微子第十八285頁「鳥獣は與(とも)に群を同じくすべからず。吾、斯(こ)の人の徒と與にするに非ずして、誰とともにかせん」。縁あって夫婦となり、子供も授かったのだから、これからはもう亭主に養ってもらおうなどと云うケチな料簡は捨て、自分がこのバカ亭主の面倒を見てやる!と発想を切り替える。亭主と思うから腹が立つのであって、バカ息子が一人増えたと思えば腹も立たん。

そしてもう一本、衛霊公第十五231頁より、「志士仁人は、生を求めて以って仁を害することはなく、身を殺して以って仁をなすこと有り」

酒乱と云うのは100%憑依現象ですから、このご主人はこのまま亡くなったら確実に地獄に落ちて、何百年も苦界でのた打ち廻ります。そして、苦しさのあまり今度は地上界の縁ある者、孫や曾孫に憑依して、子孫を苦しめることになります。ご主人もこのことは薄々分かっていて、そうはなりたくないのだが、酒の誘惑にどう立ち向かったらよいのか分からない。自分ひとりでは負けてしまう。実はこのご主人の魂は、Dさんに「助けてくれ!」と叫んでいるんですね、表向きは逆の態度をとっているけれど。

ですからDさんは、「よし!どんなことがあっても私がこのバカ亭主を助けてあげる!地獄なんかには絶対行かせない!!」と、覚悟が出来るかどうか? この覚悟が出来れば七割は成功したようなものです。あとの三割は何とでもやり様があります。

覚悟次第です!

〔 ケースその5 〕

かなり重たい話になりましたので、次はちょっと粋な話。

演歌界の重鎮S子がまだ全く売れていなかった頃、新潟県人会の会長をやっていたO氏が、当時東京支部の世話役をやっていたTさんに、「お宅のN君、もうそろそろ身を固めても良いんじゃないの? いい子がいるから紹介するよ」と言ってS子との見合い話を持って来た。Tさんは「それもそうだね」と承諾して、日取りを決めることになったのだが、 Nさんは当時O.Tというミス慶応と付き合っていたので、この話は何としてでも断りたい。

S子は、今でこそいい女になっていますが、あの頃は全くのイモ姐ちゃんでしたからね。
そこでNさんは何と言ってS子に断ったか?

子罕第九125頁「唐棣の華、偏として其れ反せり。豈爾を思わざらんや。室是れ遠ければなり」とO氏を介して伝えたら、O氏もこれに続く論語の文章「未だ之を思わざるなり。夫れ何の遠きことか之れ有らん」を思い出して、 Nさんにその気が無いことを納得、この見合い話はなくなりました。

因みにTさんは大漢和辞典の編者諸橋轍次と大の親友で、Nさんも諸橋先生とは何度も会っていたそうですから、論語のこの言葉を知っていたのでしょう。それにしても、こういう断り方をするなんて、Nさんも粋だね!ああ、この講義記録はホームページに載るんでしたね。固有名詞はイニシャルネームに変えましょう。

いくつかのケースを見て参りましたが、論語を活用できるかどうかは、一度論語全編を活学してみないことには、どうにもなりません。古いクラスでは、二回三回と活学をやって来た訳ですが、山形塾は今一回目をやっている所です。どうか、先輩の諸君は、後輩の山形塾をバックアップしてやって下さい。昨年末に事務局に混乱があったりして、半数のメンバーで再スタートを切った所ですから。

また、山形塾の諸君は、遠慮せず先輩たちに何でも相談しなさい。親身になって相談に乗るから。みんな、論語に学ぶ同志なんだからね。薄情な人は一人もいません。



3)「笹団子問答」 (君は団子を食うのか?笹を食うのか?)

新潟名物に笹団子があるのは皆さんご承知の通りですが、あれ「団子を食うのか? 笹を食うのか?」と聞かれたら、誰だって怒るでしょう、「団子に決まっているじゃないか!笹を食うのはパンダだけ!」と。

では、「団子だけ裸にして売っていたら、買って食うか?」と聞かれたらどうでしょう?「手にベタついて食えたもんじゃない。そんなんだったら黄粉のついた草餅を買う。だいいちあれは買って食うもんじゃなくて県外の人への土産に持っていくもんだ!」となるのではないでしょうか? 

更に、「もし天然笹ではなくて、プラスチックの笹に包まれていたら土産に持って行くか?」と問われたらどうでしょうか? 「そんな色気のないものは持っていかないね。あれは天然の笹に包まれているから値打ちがあるのであって、あの笹の香りが何とも云えないのだ!もちろん笹の防腐効果もある!」とおっしゃるでしょう。笹団子は、イグサの結び方も独特で、丁度米俵を縄でしばる時のように、真ん中をキュッと絞めるようにして俵団子にするから、一層見た目が良くなるんですね。

笹団子はみんな俵団子だろうと思っていたら、新発田方面の笹団子は俵状になっていないんだね。真ん中がキュッと絞まっていなくて、ずんべらぼうで不恰好なんです。ある団子屋に「これ売れないだろう?」と聞いたら、案の定「はい、売れません!」と来た。「何で俵にしないの?」と重ねて問うと、「新発田は昔からこれでしたから。これが新発田の流儀なんです!」と云う。「新発田以外の人が見たら、手抜きしたとしか思われないよ!」と申しますと、「そうですかねえ? でも昔からこれだったから・・・・今更」と話になりません。

皆さん他人事のように聞いておられるけれど、笹団子を自分のやっている仕事や商売に置き換えてみたら、他人事ではなくなるんじゃないですか!? 新発田の団子屋と大同小異じゃないのかな? 他人のことはよく見えるが、自分のこととなると明き盲だからね、みんな。

雍也第六74頁で孔子は「質、文に勝てば則ち野。文、質に勝てば則ち史。文質彬彬として、然る後に君子なり」と云っている。つまり、中身だけ良くてもダメ、見てくれだけ良くてもダメ、中身も見てくれも共に良く整っていなければ本物ではない!ということです。

近年、個性だの感性だのという言葉が持て囃されておりまして、俺流・自分流というのがトレンドのようですが、俺流や自分流が通用するのは、その道を極めた人、例えば野球なら落合とか、料理なら道場(みちば)とかが云うのならばともかく、基礎もロクに出来ていない素人に毛の生えたような人間が俺流・自分流などと言ったって通用しないんだね。そういうのは、俺流・自分流とは云わず「我流」と云うんです。

茶道でも華道でも書道でも料理道でも、すべて道と名の付くものは、「守―破―離」と云う修行の段階があって、まず基本を徹底的に身に付け→それから自分なりに応用変化を試みて→今一度我流から離れて基本に戻る。そうして漸く技術とともに感性が磨かれて、本物の個性が光って来る、つまり、自分流儀のオリジナルの道が開けて来る訳です。自分なりの応用変化やアレンジは、手っ取り早くて面白いものですから、どうしても我流に流されて王道を見失ってしまう。だから「離」、我流を離れて今一度基本に戻り、オリジナルにして変通自在、融通無碍の境地を開いて行く。

当会は、論語だけでなく、孫子・老子・孟子・韓非子・貞観政要・菜根譚と様々な講義をやっておりますが、必ず論語に戻るようになっている。これは、今云った守 ― 破 ― 離と同じことなんです。何処迄行っても、論語がベースなんです。

ですから、論語の講義もロクに受けていない者が、孫子だ! 韓非子だ! 十八史略だ!と云った所で、始まらないんだね。論語がベース、笹団子の団子! 他は笹なんですね。

仏教で云えば、「法華経」が団子で、道元の「正法眼蔵」や、親鸞の「教行信証」や、日蓮の「開目抄」は笹。唯円の「歎異抄」も勿論笹。

キリスト教で云えば「新約聖書」が団子で、アウグスティヌスの「三位一体論」やトマスアクィナスの「神学大全」は笹。

笹と云っても勿論本物の天然笹のことでありまして、プラスチックで出来た模造品ではありません。団子を食わずに、笹を食っているバカが一体どこに居りますか!? ただ、老子に限って云えば、これは笹ではなくて、団子と一体化したよもぎのようなものですね。団子の味わいを一層深めるものです。孔老一対ですからね。

まあ、一概に笹と言っても、天然の笹もあれば、冷凍笹もあれば、干し笹もあれば、プラスチックの笹もある。そうですね〜、キネシオロジーテストで言えば、ログ600〜700迄が生笹、500〜599迄が冷凍笹、350〜499迄が干し笹、200〜349迄がプラスチック笹と云ったところでしょうか。200未満に笹は必要ありません。そもそも団子自体が毒団子で、包む価値はありません。

本を読む時でも、CDを聴く時でも、皆さんに気を付けてもらいたいことは、200未満のものは絶対に読んだり聴いたりしてはいけない!と云うことです。それは、毒団子と同じで、食ったら必ず中(あた)ります。「パワーかフォースか」の中で、デヴィッド・ホーキンズ博士が述べているように、200未満はネガティブ・エネルギーフィールドといって、精神にも肉体にも不調和をもたらして、万事に悪影響を及ぼす負のエネルギーを持っているからです。

実際に、200未満のネガティブ・エネルギーを持った書籍がどれ位あるのだろうか?と思って紀伊国屋書店に行って測ってみますと、あそこには20万冊位の在庫があるでしょうか、一体どれ位が200未満の毒本だと思いますか?

私も30%位はあるだろうな?と思って測ってみると、何と75%が200未満と出る。ウソだろ?と思って、何度やっても75%と出る。ならば逆に、500以上はどうか?と測ると、0.04%、80冊しかない!と出る。540以上はどうか?といえば、0.004%、たった8冊しかない!と出る。2万5000冊に一冊しかない勘定です。

ひどいもんだな!? 四分の三が悪書・毒本か! これは悪書追放などと言ったら、日本中の本屋が潰れてしまうな?と思いながら、200〜349の毒にも薬にもならないものを調べてみると、24%、48,000冊と出た。実務書や趣味本の殆どがこれです。ということは、所謂良書と言われる350以上の本は、わずか1%、2千冊しかない訳です。20万冊(20万種)の中で。

本を選ぶ時は、必ず一人オーリングをやってから買いなさい! 200未満のものを買っちゃダメですよ!! 四分の三がそれなんだから。

一度お宅の書棚にある本もキネシオロジーテストで測ってみたらよい。一人オーリングのやり方は教えたのだから。普通の人で500冊、ちょっと多い人で1,000冊位のものでしょうか? そのうち、50%以上が200未満と出たら、用心しなさいよ!危ないからね、あなたの精神構造は。毒団子の食い過ぎだからね。

エッ? 全部が全部200未満だったらどうしよう?ですって? 決まっているではないですか! 一旦全部捨てるんです!! その時、本だけではなく、そこから得た知識・観念・思想・信念体系も一緒に全部捨てるんです! 毒を全部吐き出すんです!! スッキリするよ!

「団子の学」・「笹の学」と云うものがあるとすれば、ログ800以上のパワーを持ったものが団子の学と言ってよいでしょうか。こういうものは滅多にありません。100年に1冊出るか出ないかでしょうね。

今まで皆さんに紹介して来た書籍は、この13年間で600冊を超えますが、その中でログ800を越えるものは、マード・マクドナルド・ベイン著「心身の神癒」これが最もレベルが高くて890を打ちます。マード・マクドナルド・ベインさんはイギリス人で50年程前に亡くなられた方ですが、この方自身はログ910を打つ大如来です。其れもその筈、前世がイエスキリストに洗礼を授けたバプテスマのヨハネ、その前がユダヤの祖アブラハムの魂が転生した方なんですね。元来の意識体は、七大天使の一人、ガブリエルのようです。

それからもう一冊、昨年からしょっちゅう話題に上っている、デヴィッド・ホーキンズ著「パワーかフォースか」、これが丁度800です。デヴィッド・ホーキンズ博士はまだご健在ですが、前世は隋の時代に仏教の天台宗を開いた智(ちぎ)です。その前は調べておりませんから分かりませんが、この方自身はログ850を打つ如来です。智は「一念三千論」を確立された方ですが、キネシオロジーと十界互具がピタリと符合するのは、当り前と言えば当り前ですね。どちらも前世の自分と今世の自分、つまり同一人物がやっていることなんですから。

この二冊しかありませんね、「団子の学」800を越えるものは。これ以外は皆「笹の学」です。但し、笹といっても勿論本物の天然笹がほとんどですからご安心ください。天然の笹は、その防腐作用によって、団子を包み守るものですから。プラスチック笹のレベルの低いものと言えば、昨年7月に紹介した柳沢桂子著「生きて死ぬ知恵」、これがログ250で一番低いですかね。但しこの時は、レベルの高いものと三冊セットで読むようにと言ってありますから大丈夫でしょう。

過去13年間の推薦図書の記録が全部取ってありますので、もしかして200未満のものを紹介しなかっただろうか? 心配になりまして、630冊すべてをキネシオロジーで測ってみましたが、一冊もなくてホッとしました。因みにログ200未満はすべて「毒団子の学」です。

いいですか! レベル200以下のものを読んだり、聴いたり、身につけたりしてはいけません! 毒団子は、食べてはいけません!! 必ず猛烈な副作用を引き起こします! 中(あた)ります! 魂を腐らせます!! 場合によっては死に至ることもある。つまり魂の退化です!

ここで一つはっきり言っておきましょう。当会の会員に限って退化されたら困りますから。何の為に論語をやっているのか!? 意味が無くなりますからね。

私たちが、この世に生まれてくる目的はただ一つ!万人共通!「魂の進化!!」の為に生まれて来るんです。魂を磨く為に出てくるんです、何度も何度も。

魂を磨くには、平穏無事で順風満帆の楽な境遇ばかりだったら、ちっとも磨かれないでしょう? だから生まれる前に、逆境のあるシナリオを立てて来るんです。すべての人が。ですから人生のことを別名「魂修行の場」と言う訳ですね、ゴシゴシ磨かれる訳だから。

但し、使命は人夫々に別がある。使命とは、生まれる前に立てて来た今世の人生の課題のことである!と前に述べましたが、各人の魂のレベルに応じて夫々が別々の課題を持って生れて来る訳です。夫々が魂のレベルに応じたハードルを設定して来ますから、低いハードルの人もいれば、猛烈に高いハードルの人も居る。

「神は、その人に解決できないような試練は決して与えない」と云うのは、このことを言うんですね。つまり、「魂進化」と云う人類共通の目標と、使命を果たすという各人個別の目標を持って生まれて来る訳です。神の辞書には、魂の退化と使命の逃避と言う文字はありません!


4)あなたはどんな土産を持ってあの世に帰るのか?
  (使命を果たして帰れ!)
 
サテ、今ほど、私達がこの世に生まれて来る目的はただ一つ! 万人共通!「魂の進化」、その為に生まれて来るのだ!!と申し上げました。そして、各人夫々に、魂のレベルに応じた使命の別がある!!とも申し上げました。

つまり、人は何の為に生まれて来るのか? と問われたならば、皆さんは即座に「魂の進化の為に生まれて来る!」と答えられなければならんし、何の為に生きるのか?と問われるならば、これも即座に「生まれる前に立てて来た使命を果たす為!」と答えられなければならんのです。

生まれる前に立てて来た使命のことを「天命」・天が命じ与えた使命と言いますが、まあ、神様に果たします!と誓って来た約束・役割・課題と考えてもよいでしょう。

為政第二12頁に「五十にして天命を知り」とあるように、あの孔子でさえ五十になって自分の使命が何であったかを悟った訳ですから、我々凡人が、三十、四十で個別目標たる自分の使命が分からないからといって、そうあせる必要もありません。但し、万人共通の目標である「魂の進化」だけは片時も忘れてはなりませんが。

問題は、五十過ぎ、六十過ぎ、七十過ぎてもまだ自分の使命が分からず、地位だ名誉だ財産だ!と外物に振り回されて生きている場合です。大酒を飲む訳でもない、タバコを吸う訳でもない、極端に偏った食事をしている訳でもないのに、あっちが痛い!こっちが痛い!と健康の維持だけが人生最大の課題と勘違いしている場合です。

皆さんは、何故私がキネシオロジー、キネシオロジーと口うるさく言うのか?「パワーかフォースか」は、難解な悪訳本だけれど、分かる迄何度でも読め!と脅すのか?不思議に思っていませんか? ちゃんとした理由があるんですよ! 分かりますか?

実は、今日お配りした「キネシオロジーと十界互具の関連表」の中に、あなたが生まれる前に立てて来た使命・課題の大略を知る手掛りが隠されているからなんです!魂のレベルに応じた。

だから一人オーリングを練習しなさい!出来なければ人の手を借りてやってみなさい!と何度も何度も言うんです。他人のことはどうでもよいから、自分の正体・魂のレベルくらいはちゃんと掴んでおきなさい!と云うことなんだね。そうすれば、この表によって、自分がどんなことを今世の課題として生まれて来たかが分かるでしょう? その上のレベルを目指して出てきたんだから。

時間が押してきましたので、この表を見ながら、今世のあなたの使命は一体何であったのか? その大略を思い出して頂きます。

但し、その前に必ず次の二つのことをやっておいて下さい。
  その一、誕生時に持っていた自分の意識レベルを測定すること。
  その二、今現在の意識レベルを測定すること。

自分で測定出来ない人は私の所に来てください。測ってあげますから。


< 概説として >三つのパターン

 
@ 誕生時よりも現在の意識レベルが下がっている場合。

  ※ この人はかなり毒団子を食って来たと思われます。このまま棺桶に
    入ったらちょっと大変なことになります。心配な人は私の所に来てください。
    万一100ポイント以上下がっていたら、今世の人生は大失敗ですから、
    早めに修正して下さい。(良寛の例)

 A 誕生時と現在の意識レベルが同じ場合。

  ※ 悪いことをした訳ではないが、かと言って魂進化の為には何もして
    来なかったのでしょう。大過なく暮らせればそれで良い!と考えているんだね。
    この人は今のレベルの一つ上の課題を持って出て来ておりますから
    生きているうちに達成しましょう。

 B 誕生時よりも現在の意識レベルが上がっている場合。

  ※ よく頑張った人です。かなり苦労もしたでしょう。ですが此処で
    気を緩めてはいけない。もう一つ上のレベルを目指しなさい。
    今回は大チャンスです!


< 具体策として >

それでは、現在の意識レベルを基準にして、どんな使命や課題を持って生まれて来たか?各レベル毎に見ていきましょう。


〔 ログポイント200レベルの人 〕

少欲知足を覚えなさい。与えられた環境に不平不満を言わんこと。まだまだ物事を偏って見る傾向があるので、ニュートラル・中庸・中立公平な目を持ちなさい。人を見たら泥棒と思わず、肯定的に物事を見ていきなさい。プライベートに縮こまらず、もっと開けっ広げで伸び伸びとやりなさい。人生の一割でいいから、世の為人の為に心を砕きなさい!


〔 ログポイント250レベルの人 〕

ちょっと躓くとくよくよする傾向があるから、もっと大きな志を持って、プラス思考を心掛けなさい。マンネリ、ワンパターンになりがちだから、意欲を持って相違工夫していきなさい。ネクラの所があるから、明るく朗らかに、楽天的に生きなさい。行き当たりばったり、万事あなた任せの所があるので、主体的・自主的に、プラン→ドゥ→チェック→アクションをやる習慣を身につけること。人生の二割は、世の為人の為に心を砕きなさい!


〔 ログポイント310レベルの人 〕

5〜6人位の小グループは統率出来るが、20〜30人となるとパニックに陥るのは、寛容さが足りないから。これでなければダメ、あれでなければダメと狭い料簡でタガをはめてはいけない。もっと柔軟にあるがままを受け入れるようにしなさい。目に見える世界だけでなく、目に見えない世界にも関心を持って、第三者の目で自分を見てみる習慣を身につけなさい。人生の三割は世の為人の為に心を砕きなさい!


〔 ログポイント350レベルの人 〕

今世はいよいよ賢者の仲間入りをする使命で出てきたのだから、地位や名誉や財産の他にもっと大切なことがあるのに気付きなさい。知性の固まりを目指しなさい。常に相手の立場を理解するようにしなさい。抽象的なことも理詰めで考える習慣をつけなさい。頭脳を鍛えなさい。人生の四割は、世の為人の為に心を砕きなさい。

〔 ログポイント400レベルの人 〕

このレベルは、もう自分の為・家族の為・社会の為だけに生きてはいけません。そこはもう卒業した人がこのレベルに来て、夫々の専門分野で指導者となれる力を持っています。スペシャリストになれるレベルです。400未満が自分を磨くことに精一杯とすれば、400以上は自分を磨くことは勿論、今度は人を磨くこと、指導することを使命として出てくる段階。与えてもらう側・助けてもらう側・教えてもらう側から、与える側・助ける側・教える側にシフトして来るのがこのレベルから。

与えなさい! 助けなさい! 教えなさい! 力の出し惜しみをしてはいけない!!

このレベルはまだ「自分は自分、人は人、放っけ放っけ!」という冷めた所があるが、他人事と思わず「何とかしてあげよう!」と思ってみなさい。次から次へとアイディアが浮かんで来ます。 いいですか! このレベルの人は力の出し惜しみをしてはいけない!

転落してしまう人が一番多いのがこのレベルなんですからね。475を超えて来ると、少しづつ直感力やインスピレーションが働くようになって来ます。490を超えるとかなりこの力が増してきます。人によっては予知能力が出てきます。しかしまだ本格的なものではないので、これに振り回されると人生を踏み誤ってしまいます。

貪ってはいけない、人を怨んではいけない、愚かであってはいけない、うぬぼれてはいけない、人を疑ってかかってはいけない、異端思想に染まってはいけない。

利己主義は捨てよ! 利他の心を持って王道を歩みなさい! 
人生の五割は世の為人の為に心を砕きなさい!
 

〔 ログポイント500レベルの人 〕

このレベルの意識を持っている人は、当会会員の中にはまだ二人しかおりません。うまくいくとなれそうな人があと八人おります。

お配りした「キネシオロジーと十界互具の関連表」では、このレベルを菩薩としておりますが、厳密に言うと菩薩見習いの「諸天善神」と云うのがこのレベルです。本物の菩薩は540以上になります。

昨年夏の合同例会で、レベル500を打つ人が二人現れたと言ったところ、もしかして自分がそれではないかと勘違いしている人から「誰だ? 誰だ?」としつこく聞かれるものですから、「そういう人は聞いてこないから、君ではない!」と答えておきましたが、自分ではないと分かった途端「誰だ? 誰だ?」と一層しつこく聞いてくる。

イエスは「自らを貴しとする者は低くせられ、自らを低しとする者は挙げられる」と述べておりますが、ログ500を超えてくる人は、自分が菩薩見習いなどとはこれっぽっちも思っていない。まあ普通の人間だろう?位にしか思っていないもんなんです、どうでもいいんですよそんなことは。この人達にとって。

何故かと云うと、このレベルになると他人と比較してどうこうということに殆ど関心がなくなって、自分のことより自分の周りの人達の幸不幸や苦楽の方が気になって来るからなんですね。周囲の幸福イコール自分の幸福と考えてしまうんですね。そうですねえ、このレベルの魂は、与えてもらいたい・救ってもらいたい・助けてもらいたいという「もらいたい発想」は殆ど無くなって、与えてあげたい・救ってあげたい・助けてあげたいという「あげたい発想」を生まれつき持って出て来るんです。当人にはそれが立派なことでも何でもなく、当り前のこととして。

魂としてはかなり成熟した魂で、古く長い輪廻転生の遍歴を経て来ているようですね、このお二人は。

考えてみれば当り前のことですが、先輩が後輩を助け導くと云うのが当然のように、古い成熟した魂が新しい未熟な魂を助け導くのも又当然のことなんですね。ですからこのレベルに達した人の特徴は、奉仕を通り越して献身、つまり、何々の為ではなく、何々とともに!という傾向が強くなります。

先程、深刻なDさんのケースで紹介しましたが、衛霊公第十五231頁に「志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無く、身を殺して以て仁を成すこと有り」とあるように、このレベルになると、より大いなるものの為に自らの命を投げ出すことも厭いません。これを「不惜(ふじゃく)身命(しんみょう)」と言いますね。

このレベルは例外なく情に厚い人達ばかりで、薄情な人は一人もおりません。自分は自分人は人、放っとけ放っとけ!というような人はこの世界には入れません、残念ながら。ただ、情け深いあまり、ともすると情に振り回されて冷静な目を失ってしまうことがありますから充分注意して下さい。研ぎ澄まされた眼力を元々持っているのだから、それを忘れないようにして下さい。

仁無き知は不毛ですが、知を欠いた仁は無謀であることを胆に銘じておいて下さい。本物の菩薩になる為に、敢えて過酷な境遇を選んで出てきているのだから、場合によっては、野垂れ死にしても構わないくらいの覚悟で臨みなさい。

このレベルの人は、時間的にも環境的にも猛烈に高いハードルを設定してきておりますから、中々楽をさせてくれません。時にはふと立ち止まって、スーッと肩の力を抜いてみなさい。絵でも良し、音楽でも良し、温泉でも良し、茶の湯でも良し、瞑想でも良し、静かなる「壺中の天」を持ちなさい。

「知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」(雍也第六76ページ)だからね。

老子の「踊場の哲学」的発想も必要です。いかなる境遇に遭おうとも、『ほのぼのとして、何となくユーモラスで、どこか懐かしい感じがして、いつ迄も無邪気な遊び心を失わず』、淡々と自らの使命を果たして行きなさい。人生の途次で猛烈な孤独感・孤立感に襲われると思うが、理仁第四46頁「徳は弧ならず、必ず隣りあり!」と自分に言い聞かせて歩みなさい! 世の中明き盲ばかりではありません。徳のある人には必ず共鳴者・協力者・支援者が現れます。孤立することなど絶対に無いから、安心しなさい!

以上で本日の講話を終わります。